「警鐘」グループの「神奈川左派」への合流
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「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の記事における「「警鐘」グループの「神奈川左派」への合流」の解説
1967年(昭和42年)、中国の文化大革命をめぐる評価で、日本共産党内部で深刻な対立が生じ、日本共産党は党内の「親中国派」を大量に除名した。日本共産党(左派)神奈川県委員会、通称「神奈川左派」は、日本共産党を除名された同党神奈川県委員会の親中派による党派で、メンバーは日本中国友好協会神奈川県支部の幹部を兼ねていた。 毛沢東思想を奉じていた河北三男、川島豪らの「警鐘」は、共産党出身の神奈川左派のメンバーを指導者として仰ぐべく同派との合流を模索し、間もなく「警鐘」の神奈川左派への合流が実現した。但し、共産党出身の神奈川左派の人数は少なく、新組織は「警鐘」の各地の支部に共産党出身の神奈川左派幹部が少人数ずつ配置されたものとなった。河北三男、川島豪ら「警鐘」の幹部は、当初は共産党出身の神奈川左派幹部らに敬意を払っていたが、間もなく彼らの指導を無視するようになった。 共産党出身の神奈川左派幹部らは当時の新左翼に対して批判的であったが、元「警鐘」の河北、川島は新左翼を高く評価していた。また、河北は山口左派を中心に親中国派の結集を目指した日本共産党(左派)結成準備大会において、大隈鉄二の佐賀県左派と共に反山口派(日共革命的左派)についた。 神奈川左派の元「警鐘」メンバーは、ML派を分裂させたとして同派から目の敵にされており、神奈川左派結成直前から革命左派初期に至るまで暴行・拉致監禁等の内ゲバを受けていた。共産党出身の指導部はML派に対して非暴力での対処を主張し、ML派から顔が分からなくなるほどの暴行を受けながら非暴力で拉致されたメンバーを奪還したりもした。一方で川北、川島らは暴力による報復を主張し、指導部の意向に反してML派への内ゲバを行った。
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