「徳を主に、刑を輔に」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 08:44 UTC 版)
紀元前202年に立てられた漢王朝は秦王朝の滅亡の教訓を鑑み、法家の法律思想を敬遠し、「無為の治」を主張していた道家の法律思想を採りいれ、「約法省刑」(法律を簡略化させ、刑罰を緩和させる)を指導方針とした。秦王朝法制を受け継ぎながら、その中の厳しい法律を廃止し、一部肉刑を廃止した。それと同時に、漢王朝前期の数10年間は、朝廷による民衆からの租税徴収を緩和させる政策も施行したため、民衆は秦王朝の恐怖政治から解放され、生産意欲が高まり、国富が史上の最盛期に達した。「文景の治」はまさにこの時期の繁栄を称えるものである。しかし、道家の「無為の治」を極端なまでに推し進めた結果、朝廷の統制力が次第に弱まり、紀元9年についに朝廷が王莽に乗っ取られ、農民一揆が頻発するようになった。光武帝劉秀は漢王朝を立て直し、首都を洛陽に移転し、後漢王朝の支配を始めた。漢武帝は法家の過度な残酷性の弊害と道家の過度な無為性の弊害を見極め、新しい法制の模索に取り組んだ。この過程で漢武帝は、儒学者董仲舒が打ち出した「百家を廃止し、独り儒学を尊ぶ」理論を受け入れた。この理論の核心は、儒家と法家を合流させ、道徳を中心に、刑罰を補助的なものにすることにあった。その理論的基礎は陰陽五行説である。董仲舒は、天地宇宙は陰陽の変化から構成されたものであり、両者はお互いを必要とし、一方は他方を欠いてはならないとする。しかし、両者は対等の地位にあるのではなく、陽が主で陰が二次的で、陰が陽を支えるものと説いた。さらに董仲舒は、天道を人事になぞらえ、天道と人事を一体化させ、道徳と刑罰との関係は陰陽関係と同様に、互いに表裏を為していると主張した。支配者は天道に従い、徳礼による教化を主に、刑罰による懲罰を補助的なものにすべきと主張した。すなわち道徳と刑罰を併用し、令と法を融合すべきと強調した。この法律思想は儒学の倫理道徳や礼教を利用して各種の社会関係を調整し、人々に自動的にそれを順守させ、君主専制主義の支配に服従させようとすると同時に、天道陰陽をもって徳礼と刑罰の関係を論証したため、刑罰に普遍性、永久性と神聖性の特徴を持たせた。そのためこの理論は統治者にとって都合のよいものであり、後漢から清代の崩壊までの約1900年間に亘り歴代支配者は例外なくこれを使い続けた。
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