「失われた機会」に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:14 UTC 版)
「スターリン・ノート」の記事における「「失われた機会」に関する議論」の解説
ほとんどの関係者や政治家は論点に同意しているが、1952年に再統一の機会を逃したか否かについてはいくつかの議論があり、主に2つの論点が存在する。 具体的な論点は、スターリンの動機、つまり中立化された民主的で統一されたドイツを許す覚悟があったかどうか(そして東ドイツを手放す覚悟があったかどうか)ということであった。懐疑論者はこれを否定するし、完全に独立したドイツは、西側同様スターリンにとっても不快な物であり、東ドイツの存在はスターリンにとって大きな利点があった。第二次世界大戦の戦勝国のひとつとして、ソ連はその威信を享受している。 東ドイツがソ連の勢力圏である事は、西側にも認められていた。 東ドイツは特にソ連軍がチェコスロバキアとポーランドから離脱した後、ヨーロッパの中央に位置する重要なソ連の橋頭堡であり、ソビエトの衛星国の中で重要であった。 東ドイツの指導部は、大部分が特にソ連に忠実な封臣であった。 東ドイツはソ連に戦後補償を支払い兵士を配備した。 ヴィスムート社(ドイツ語版)はソ連の核開発(ロシア語版)のために大量のウランを採掘していた。 東ドイツには機械やプラントの建設に長けた多くの企業があった。 1955年にソ連軍が撤退し、永世中立国となったオーストリアの例を出しても、ドイツに比べ戦略的・経済的重要性がはるかに低く説得力を持たない。さらに、オーストリアは1945年の時点で既に統一政府が存在した(連合軍軍政期 (オーストリア)、オーストリア国家条約を参照)。 懐疑論者が感じるより政治的で思索的な問題は、そのようなドイツが望ましい物であったかどうかという事である。スターリンは今、再統一で譲歩しても、全ドイツを征服しようとしたかもしれない。 西側の同盟がなければ、スターリンはアドルフ・ヒトラーがドイツの隣国にした様に、西欧諸国を少しずつ征服したかもしれない(アンシュルス、ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体、ポーランド侵攻、ナチス・ドイツのフランス侵攻を参照)。 西側に統合されていなければ、連邦共和国やドイツ全体の経済状況は悪化していただろう(マーシャル・プランが復興に大きく貢献したか否かは議論の余地がある)。 何よりも、連邦政府と西側諸国の行動が議論の対象となっていた。批評家の中にはパウル・ゼーテ(ドイツ語版)、歴史家のヴィルフリート・ロート(ドイツ語版)、ヨーゼフ・フォシェポス(ドイツ語版)、カール・グスタフ・フォン・シェンフェルス、そして何よりもロルフ・シュタイニンガー(ドイツ語版)がいた。彼らの意見に答えたのは、ゲルハルト・ヴェティヒ(ドイツ語版)、ゴットフリート・ニードハルト(ドイツ語版)、そして後に加わったヘルマン・グラムル(ドイツ語版)などであった。批評家が繰り返していた発言の中には、ラインラントの出身であるアデナウアーがプロテスタントの地盤である東部プロイセンとの再統一を全く望んでいなかったという物があった。ヴァイマル共和政時代のアデナウアーの姿勢(彼はドイツ国内に独立したラインラントを望んでいた)が蒸し返されたが、動機として十分な確証をもって証明する事はできない。しかし、アデナウアーにも合理的な動機があった。 ドイツ社会民主党(SPD)の伝統的地盤の多くは東ドイツの領域内にあった。東部地域があればドイツ全体がよりプロテスタント的になり、おそらく西部地域の連邦共和国よりも社会民主的になっていただろう。 この議論には、1950年代末と1980年代半ばに西側諸国の公文書館が資料を公開した後の2つの転機があった。より最近の1990年代の研究では、旧東欧圏の資料も含まれるようになり、議論の継続に貢献している。
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