「ヒトラーの火消し屋」
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「ヴァルター・モーデル」の記事における「「ヒトラーの火消し屋」」の解説
第二次世界大戦が始まると、1939年のポーランド侵攻と翌1940年の西方電撃戦で第16軍参謀長を務めた。その後も第3装甲師団長、第41軍団長、第9軍司令官を務め、特に1941年からの独ソ戦では、1941年7月に騎士鉄十字章を受章、さらに1941年冬のモスクワ前面でのソ連赤軍の反撃に対し、就任した第9軍司令官として巧みな防衛戦で戦線を安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功により1942年2月に上級大将に昇進し、さらに立て続けに柏葉騎士鉄十字章、柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。その後も、第9軍司令官として、第二次ルジェフ会戦や、ルジェフ突出部からの撤退作戦など防衛戦に活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得る。 しかし、1943年7月のクルスクの戦いにおいては、彼の第9軍は北部からの主攻撃を担当したが、ソ連赤軍の堅固な守りによって大きな戦果を上げることはできなかった。この際、ヒトラーのもとで行われた5月の作戦会議において、参謀総長クルト・ツァイツラー、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ、南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタインは作戦の即時実行を主張したのに対して、モーデルは自軍は準備不足であり、作戦開始は一ヶ月は延期すべきであるとの主張を押し通した。この結果、ソ連赤軍の防衛体制は更に増強され、作戦の失敗につながった。これについては、モーデルはもともと作戦自体に反対だったのであり、延期を繰り返すことによって作戦そのものを中止に持っていこうとしたとも言われている。 その後、一時の休養をはさんで、1944年1月には、レニングラード地区でソ連赤軍の攻勢を受けていた北方軍集団の司令官に就任し、とりあえず戦線を安定させた。その後3月には、解任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタインの後任として北ウクライナ軍集団の司令官に就任し、同時に元帥に列せられた。6月にはソ連の大攻勢によって粉砕された中央軍集団の司令官を兼任し、かろうじて戦線を立て直すことに成功した。同年7月にヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、ヒトラーに対し誓紙を差し出している。この事件の影響で、8月にギュンター・フォン・クルーゲの後任として西方軍総司令官およびB軍集団の司令官として西部戦線へ転任するが、ドイツ軍は連合国軍の急速な進撃によってファレーズ包囲戦で大打撃を受けるなど壊走状態となっており、状況はさすがのモーデルの手にも余った。この時モーデルは、ヒトラーから出されたパリ破壊命令を忠実に実行するよう、破壊命令に躊躇していたパリ防衛司令官のディートリヒ・フォン・コルティッツに命じている。 9月初めにゲルト・フォン・ルントシュテットが西方軍総司令官に再任されると、モーデルはB軍集団司令官の専任となり、翌1945年4月までその職にあった。この間、9月の連合軍のマーケット・ガーデン作戦を失敗に終わらせたが、12月のバルジの戦いにおいては、自身は大規模な攻勢作戦はもはやドイツ軍の戦力では不可能として反対したものの、ヒトラーを翻意させることはできず、結局攻勢はミューズ川にも達することができず失敗に終わった。この頃からヒトラーの信任も次第に失われていった。
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