「ヒトラーの火消し屋」とは? わかりやすく解説

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「ヒトラーの火消し屋」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:49 UTC 版)

ヴァルター・モーデル」の記事における「「ヒトラーの火消し屋」」の解説

第二次世界大戦が始まると、1939年ポーランド侵攻と翌1940年西方電撃戦第16軍参謀長務めたその後第3装甲師団長、第41軍団長第9軍司令官務め、特に1941年からの独ソ戦では、1941年7月騎士鉄十字章受章、さらに1941年冬のモスクワ前面でのソ連赤軍反撃対し就任した第9軍司令官として巧み防衛戦戦線安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功により1942年2月上級大将昇進し、さらに立て続け柏葉騎士鉄十字章柏葉剣付騎士鉄十字章授与された。その後も、第9軍司令官として第二次ルジェフ会戦や、ルジェフ突出部からの撤退作戦など防衛戦活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得る。 しかし、1943年7月クルスクの戦いにおいては彼の第9軍北部からの主攻撃担当したが、ソ連赤軍堅固な守りによって大きな戦果上げることはできなかった。この際ヒトラーのもとで行われた5月作戦会議において、参謀総長クルト・ツァイツラー中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン作戦即時実行主張したに対してモーデル自軍準備不足であり、作戦開始一ヶ月延期すべきであるとの主張押し通した。この結果ソ連赤軍防衛体制は更に増強され、作戦の失敗つながった。これについては、モーデルはもともと作戦自体反対だったのであり、延期繰り返すことによって作戦そのもの中止持ってこうとしたとも言われている。 その後一時休養はさんで1944年1月には、レニングラード地区ソ連赤軍攻勢受けていた北方軍集団司令官に就任し、とりあえ戦線安定させた。その後3月には、解任されエーリッヒ・フォン・マンシュタイン後任として北ウクライナ軍集団司令官に就任し、同時に元帥に列せられた。6月にはソ連大攻勢によって粉砕され中央軍集団司令官兼任しかろうじて戦線立て直すことに成功した同年7月ヒトラー暗殺未遂事件発生すると、ヒトラー対し誓紙差し出している。この事件影響で、8月ギュンター・フォン・クルーゲ後任として西方総司令官およびB軍集団司令官として西部戦線転任するが、ドイツ軍連合国軍急速な進撃によってファレーズ包囲戦大打撃を受けるなど壊走態となっており、状況はさすがのモーデルの手にも余った。この時モーデルは、ヒトラーから出されパリ破壊命令忠実に実行するよう、破壊命令躊躇していたパリ防衛司令官ディートリヒ・フォン・コルティッツ命じている。 9月初めにゲルト・フォン・ルントシュテット西方総司令官再任されると、モーデルB軍集団司令官専任となり、翌1945年4月までその職にあったこの間9月連合軍マーケット・ガーデン作戦失敗に終わらせたが、12月バルジの戦いにおいては自身大規模な攻勢作戦はもはやドイツ軍の戦力では不可能として反対したものの、ヒトラー翻意させることはできず、結局攻勢ミューズ川にも達することができず失敗終わったこの頃からヒトラー信任次第失われていった

※この「「ヒトラーの火消し屋」」の解説は、「ヴァルター・モーデル」の解説の一部です。
「「ヒトラーの火消し屋」」を含む「ヴァルター・モーデル」の記事については、「ヴァルター・モーデル」の概要を参照ください。

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