「バトルアクス作戦」を撃退
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「「バトルアクス作戦」を撃退」の解説
詳細は「バトルアクス作戦」を参照 その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた。 英軍は第4機甲旅団と第7機甲旅団の南北二手に分かれて進軍し、1941年6月15日早朝からハルファヤ峠に攻撃を開始した。アラスの戦いでも悩まされた重装甲戦車マチルダII歩兵戦車も動員されていたが、アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐(en)の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた。 英軍は頑強なハルファヤ峠を迂回し、サルーム西方カプッツォ砦(en)に40両のマチルダII歩兵戦車でもって襲撃をかけてきた。オートバイ部隊が早々に潰走させられたが、ヨハネス・キュンメル大尉(en)の指揮の下にIV号戦車2両と88ミリ高射砲1門だけでマチルダII歩兵戦車を9両も破壊し、英軍を敗走させている。キュンメル大尉はこの活躍で騎士鉄十字章柏葉章を受け、また「カプッツォの獅子」の異名を得た。 ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻にはシジ・オマール東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした。 物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にも関わらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった。
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