聖デイヴィッド大聖堂 歴史

聖デイヴィッド大聖堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/06 02:54 UTC 版)

歴史

修道院

西暦589年601年[7]602年とも[8])に死去したメネヴィア(Meneviaウェールズ語: Mynyw〉、アイルランド語: muine と同じく「茂み」〈: bush〉の意[9]、現セント・デイヴィッズ[10])の修道院長、聖デイヴィッドウェールズ語: Dewi Sant、聖デウィ[10])により、530年頃、当初の修道院が創設された[7]。この地はヴァリス・ロジーナ(Vallis Rosina〈ウェールズ語: Glyn Rhosyn、「小さな湿地の谷」〈: ‘the valley of the little marsh’〉の意[9])とも称された[11]

645年から1097年にかけて[12]、その一帯はヴァイキングらの侵略者に何度も攻撃されたが、アルフレッド王ウェセックス王国の知的生活の再構築にセント・デイヴィッズの修道院からの援助を要請したように、その地は宗教的かつ知的な中心地として注目されていた。999年の主教 Moregenau や1080年主教アブラハム英語版など、聖職者の多くが侵略者や略奪者により殺害された[13]1891年に発見された[14]「アブラハム・ストーン」として知られる1080年に殺されたアブラハムの子らの墓に捧げた石には[15]、初期ケルトシンボルが複雑に刻まれており、現在は門塔であるポルス・ア・トゥル (Porth-y-Tŵr) の大聖堂の展示のなかに常設展示されている。

1081年征服王ウィリアムは祈念のためにセント・デイヴィッズを訪れ[13]、そこが神聖かつ敬虔な場所と認めた。1089年、デイヴィッドの祠堂が破壊され[12]、その貴金属が剥奪された。1090年には、ウェールズの学者フリギファルク英語版が『デイヴィッドの生涯』 (“The Life of David”) を[16]ラテン語で記し、デイヴィッドの神聖さを際立たせたことで[15]、彼は初期のほとんど崇敬聖人(: cult)的な地位を得た。

大聖堂

1115年ノルマン朝の支配する地域において、イングランド王ヘンリー1世は、セント・デイヴィッズ主教英語版としてノルマン人主教ベルナルド(Bernard、1115-1147年)[17]を任命した[13]。彼は始めに修道院内の活動を改善し、そして新しい大聖堂の建設に着手した。1123年教皇カリストゥス2世は、セント・デイヴィッズに教皇の特権英語版を授け、教皇は、そこを西洋の巡礼の中心として、「セント・デイヴィッズの2度の巡礼はローマ(バチカン)への1度の巡礼と等しく、3度の巡礼はエルサレムへの1度と同等である」と布告した[18][19]。新しい大聖堂は直ちに建設され、それは1131年に主教ベルナルドにより奉献された[13]

再建築

1171年1172年イングランド王ヘンリー2世の訪問において[13]、デイヴィッドの崇拝者は増加し、より大きな大聖堂の必要性が見られた。現在の大聖堂は、主教ピーター・ド・レイア英語版1176-1198年)のもと[20]1181年(もしくは1182年[20])に着工され[21][22]、おそらく補佐役のジェラルド・オブ・ウェールズ英語版[23](ジェラルド・ド・バリ[24]〈ギラルドゥス・ド・バリ、Giraldus de Barri〉)と共同で[25]、間もなく完成した。その初期の段階に新しい建造物およびその一帯を襲った問題としては、1220年の新しい塔の崩壊や、1247年ないし[26]1248年の地震による被害がある[18]。その後、1275年に聖デイヴィッドの祠堂が建立されている[27]

大聖堂構内の概要図(上: 東)
囲壁内の大聖堂(上)、主教宮殿(下)。ポルス・ア・トゥル(上端)1899年[28]
セント・デイヴィッズ主教宮殿の中庭と東面(後方に大聖堂)

14世紀中頃、主教ヘンリー・ガウアー英語版1328-1347年)のもとで大聖堂は内陣障壁英語版をもつ身廊クワイヤなどのほか、さらに大規模な改装が施され[22]、また、主教宮殿英語版セント・デイヴィッズ主教宮殿)が[29]、ガウアーの監督制の不変的記念物として計画・構築された(宮殿は今日多くが崩壊している)。

1365年、主教アダム・ホートン英語版[30]とそれにジョン・オブ・ゴーントは、セント・メアリーズ・カレッジ (St Mary's College) と礼拝堂 (Chantry) の構築した[31]。彼は後に大聖堂にそれを接続する回廊の追加にも着手した[32][33]

16世紀、主教エドワード・ヴォーン(Edward Vaughan1509-1522年)のときには、扇形ヴォールトを用いた聖三位一体礼拝堂 (Holy Trinity chapel) の建造が見られた[34]。また、この時代には屋上およびオークの天井が1530-1540年にかけて構築され、身廊の大きな進展が見られる[35]プロテスタントとしての主教ウィリアム・バーロウ(William Barlow1536-1548年)は、歴代の主教とは異なり、デイヴィッドに追随することへの抑制を図り、聖デイヴィッドの祠堂から宝飾を剥奪し、1538年には「迷信」を打ち消すために、聖デイヴィッドおよび同時代の聖ユスティニアン英語版の遺物を取り除いた[22][36]1540年には、リッチモンドの伯爵でヘンリー7世の父であるエドマンド・チューダーの亡き骸が、カーマーゼンの解散したグレイフライアー小修道院 (Greyfriars' Priory) の墓から運ばれ[37]、祭壇のある内陣の手前に安置されている。

オリバー・クロムウェルのもとでのイングランド共和国の設立は、多くの大聖堂や教会、特にセント・デイヴィッズにも大きな影響をもたらした。1648年、大聖堂はほとんど議会の部隊により破壊され、主教の宮殿の屋根からは鉛が剥ぎ取られた[38]

西端の正門より後方の袖廊

修改築

南の張り出し玄関(左)より中央塔・南翼廊(右)
翼廊と中央塔

18世紀末、ウェールズの建築家ジョン・ナッシュは、西側正面を復元し、200年前の破損を修復するよう依頼された。1793年に改築されたその様式は、ゴシック調(初期ゴシック・リヴァイヴァル建築)であり[39]、その後、西正面のはざま飾りに再利用するため、セント・メアリーズ・カレッジの礼拝堂の窓の一部を壊したことが明らかになるなど、彼の仕事はすぐに低水準であることが判明した。半世紀のうちにナッシュの西正面は崩れるようになり[40]1862年から1877年にかけて建物全体がジョージ・ギルバート・スコットにより修復された[41]1901年には聖母礼拝堂英語版が息子のジョン・オルドリッド・スコット英語版のもと[42]、一般の寄付により修復され、東の礼拝堂は、1900年から1910年にかけて[12]、メイドストーン伯爵夫人 (Countess of Maidstone) の遺産により復元された。

大聖堂は、ウェールズにあるすべての教会と同様、1923年国教会制廃止の痛手を受けた。セント・デイヴィッズ教区英語版は、新しくスウォンジー・ブレコン教区英語版を構成するため、ブレコン大執事区 (Archdeaconry of Brecon) を撤廃することでより小規模になった。また一方、この地の治める教区の広域を残して、セント・デイヴィッズは教区の中心地として衰退し始め、その中心からかけ離れていった。16世紀以来、主教の居住はカーマーゼンにあったが、現在、本部や中心は大聖堂から教区で最大の町に移っている[43]

1950年代に師カール・ウィットン=デイヴィス (Carl Witton-Davies) が大聖堂の主任司祭 (dean) に任命された。30歳代で任命された彼の推進的な構想や行動力は、オックスフォード大執事 (Archdeacon of Oxford) の昇任を思わせるようないくつかの提言を示したものの束の間に終わった。しかし、教会に残る彼の任期によりその地位を退かなかった。大聖堂が再び活力をもち始めると、セント・デイヴィッズへの有名なウェールズ青年巡礼 (Cymry'r Groes) が教会の礼拝生活へと多くの者を導き、ウェールズの教会に良き聖職者を10年間提供した。

1960年代、大聖堂教区の利用および美術展や詩の朗読会の場として使用するための大聖堂の会館として、セント・メアリーズ・カレッジの修復が見られた。それは1966年[42]主教エドウィン・モリス (Edwin Morris) によって献呈され、その第1回記念行事は、バンゴール教区英語版の主教代理を務めた有名な詩人R・S・トーマス英語版による詩の朗読であった。

1980年代には大聖堂の歴史的公式行事が数多く行われた。1981年、ウェールズ公チャールズ(のちのチャールズ3世)が大聖堂の奉献800周年の式典に出席した。また、1982年洗足木曜日、女王エリザベス2世が大聖堂において王室洗足式英語版の硬貨 (Maundy Coin) を分配した[12]。これは、その式典が初めてイングランドの外で執り行なわれたものであった。1989-1990年には聖デイヴィッド没後1400周年が、ウェールズ大主教英語版でセント・デイヴィッズ教区の主教でもあったジョージ・ノークス英語版の主催により行なわれた。その後、イギリス政府はセント・デイヴィッズに「シティ」の称号[6]の復帰を決定し、1995年[12]6月1日、女王エリザベス2世により正式に授けられた。

1994年、主任司祭に任命されたウィン・エヴァンス英語版の前には多くの課題が累積していた。新しいオルガンがどうしても必要であり、そして西側正面は大規模な修復が求められた。その時期、大聖堂では鐘塔内にビジターセンターを設けてその将来性に投資することや、鐘を8口から10口に増やして鐘の音を大きくすること、また、大聖堂の回廊の「再建」ないし補完により、大聖堂聖歌隊や教区委員会の建物、教育室、教区用の部屋、それに初期の修道院を想起させるような食堂(リフェクトリー、refectory)なども思案された。最初の事業は西側正面の修復であり、1998-2001年になされ[12]、それには当初の採石場として再開されたケアバーディー湾 (Caerbwdi Bay) の石が使用された[44]。オルガンはハリソン・アンド・ハリソン英語版により、再建される時期に間に合うよう、1998年9月に解体が完了した。2000年に完成したオルガンは、同年10月15日に奉納された[45]

大聖堂から見たポルス・ア・トゥル (Porth-y-Tŵr)
改修された回廊および食堂(リフェクトリー、refectory
大聖堂の平面図(上: 北)
1899年[46]

一連の鐘 (ring of bells) は、2口がロンドンホワイトチャペル・ベル・ファウンドリー英語版により鋳造され、2001年3月1日、American Friends of St Davids Cathedral からの進物として奉納された[47]。10口の鐘の残る8口の鐘は、1928年ロンドンの Mears & Stainbank で鋳造されたものである。鐘は1730年より大聖堂の中央塔に掛けられておらず[48]1931年から[42]、古来のゲートハウス(門塔)であるポルス・ア・トゥルにつながる13世紀鐘楼 (Bell Tower) にある[48]

鐘の詳細
重量 直径 鋳造年 鋳造所
lb kg in mm
1 591 268 F♯ 2000 Whitechapel Bell Foundry
2 611 277 E 2000 Whitechapel Bell Foundry
3 638 289 D 30.00 762 1928 Mears & Stainbank
4 667 303 C♯ 31.00 787 1928 Mears & Stainbank
5 797 362 B 33.00 838 1928 Mears & Stainbank
6 955 433 A 35.75 908 1928 Mears & Stainbank
7 1,207 547 G 39.00 991 1928 Mears & Stainbank
8 1,311 595 F♯ 41.00 1,041 1928 Mears & Stainbank
9 1,934 877 E 46.00 1,168 1928 Mears & Stainbank
10 2,797 1,269 D 52.00 1,321 1928 Mears & Stainbank

回廊を教育センターや食堂(リフェクトリー)として再構築する大作業は2003年に始まり、2007年5月に完成した。2009年、ウィン・エヴァンスが主任司祭から主教へと移り、追ってジョナサン・リーン英語版が主任司祭に任命された。

2012年聖デイヴィッドの日英語版[49](セント・デイヴィッズ・デイ)[50]である3月1日に、復元された聖デイヴィッドの祠堂の除幕式および再奉納が主教ウィン・エヴァンスにより行われ[19]、5日間の祝祭が開催された[51]


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