創価学会 他の宗教との関係

創価学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 02:47 UTC 版)

他の宗教との関係

戸田城聖が存命だった1950年代から、日蓮正宗以外のすべての他宗教・他宗派を一切認めず「邪宗・邪教」として批判してきた[155]。その攻撃の矛先は折伏大行進期には立正佼成会天理教など日蓮・法華系あるいは神道系の新宗教団体、正本堂建立以降は妙信講(現・冨士大石寺顕正会)や正信会といった日蓮正宗系新宗教団体、そして破門後は日蓮正宗宗門へと向けられた。立正佼成会等が新日本宗教団体連合会日本宗教連盟などを通じて他教派との交流を取っているのと異なり、2017年(平成29年)現在でも学会本体・公明党共に日本国内の他の新宗教教団とは協調するまでには至っていない[156]

一方、日蓮正宗からの干渉により進捗に支障があったキリスト教イスラム教など仏教以外の既存世界宗教との対話は、同宗からの破門と前後して徐々に軟化。その傾向が顕著になったのは「SGI憲章」が制定された1995年(平成7年)11月23日以降で、憲章の7番目の項目として「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。」と記述され、方針転換を正式に表明した。現在、創価学会インタナショナルは(日本を含む)世界192の国と地域に組織を持ち、特定の宗教以外が厳しく制限されているイスラム圏社会主義国など一部地域を除いて全世界に活動の幅を広げるまでに至っている。

さらに、SGIは世界宗教議会の定期的な参加団体であり、また、欧州科学芸術アカデミーと一連の宗教間シンポジウムを開くなど、さまざまな宗教の人々との間の理解を形成することを目的とした宗教間対話や取り組みに積極的に参加している[157]

戦前・戦中の国家、神道との関係

島田裕巳によると初代会長の牧口常三郎皇太神宮の神札である神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させたが、国家神道の全てを否定していたわけではないという[158]。第5回総会での全員座談会において牧口は靖国神社に参拝する意義を説き、靖国神社への参拝はご利益を得るためのものではなく感謝の心を表すものである点を強調した[158]。さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して「感謝し奉る」と言い、昭和天皇現人神と認め、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが純忠だと信ずる」と述べている[158]

また、現代ビジネス(Web版週刊現代)によると、当初、創価学会の前身である戦前の創価教育学会は治安当局と左翼運動取締りにおいて協力的な関係にあった[159]。創価教育学会は「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」とうたったパンフレットを発行し、治安当局との蜜月ぶりを会員獲得に向けた宣伝材料にもしていた[159]。牧口らは警視庁特高課やその元締めである内務省警保局思想検事ら治安当局と緊密に連絡を取り合っていた[159]。しかし、日本共産党を壊滅させた後、治安当局が次に取り締まり対象としたのは宗教団体であった[159]。一転して、創価教育学会は特別高等警察の弾圧を受けることになった[159]。ただし、それは創価教育学会が反戦・平和を訴えたからではない[159]。神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させるなどしたからである[159]

当時、大方の宗教団体がそうだったように、日蓮正宗も戦争には協力的な立場だった[160]。それは日蓮正宗の在家信徒団体である創価教育学会も同じであった[160]。例えば、創価教育学会の機関紙「価値創造」の第6号には、日蓮正宗宗務院が1942年1月21日付で出した布告を転載していた[160]。その布告の内容は、日蓮正宗が2月8日午後、大石寺において全国から僧侶や檀信徒を集め「大東亜戦争戦勝祈願大法要」を開催し、日蓮正宗にとって信仰の根本である「戒壇の大御本尊」の御開扉に続き、「戦争完遂宣誓式」を行うというものであった[160]。さらに、1941年10月の「価値創造」第3号では、当時、日本の同盟国の指導者で「現代の転輪聖王」といわれていたナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー総統の著書『我が闘争』について紹介した[161][160]

1942年になると、第二次世界大戦日本軍が南方で緒戦の勝利を重ねていたためか創価教育学会の幹部達から勇ましい発言が相次ぐようになる[160]。『価値創造』の後継誌として出された小冊子「大善生活実証録」(国立国会図書館に覆刻版が所蔵されている)によると、総会の開会にあたり幹部の一人が「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫々たる戦果を挙げている事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第である……我国としても、もう寸毫の妥協も許されず、勝つか負けるかの一時のみ、否、断じて勝つの一手あるのみである」と挨拶[160]。閉会では別の幹部が「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、ひたすらに目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆様熟知されるところである」と締めくくった[160]。また、総会はいつも皇居に向かっての遥拝で始まり、会の終わりには軍歌が歌われた[160]

一方、創価学会は「学会が軍部政府におもねっていたとすれば、牧口会長も戸田会長も、逮捕されることなど全くなかった」とする見解を取っている[SG 95][注 17]。その見解によると、1943年6月、牧口は戸田とともに日蓮正宗総本山・大石寺に召喚され、当局による弾圧を懸念した宗門側から「神札を受けるように」と勧められるも、日興の残した遺戒にある「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」[SG 97] の精神を貫き通し、「承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません」と言って拒否した[SG 98]。それから1か月後、神札の受け入れを拒否した行為が不敬罪治安維持法違反にあたるとして、牧口や戸田、他の幹部ら21人は逮捕・投獄された[SG 99]。幹部たちは退転していったが、牧口・戸田の2名だけが最後まで信仰を貫き通した。牧口は1944年11月18日、現在の創価学会創立記念日にあたるこの日に東京拘置所で「殉教(=獄死)」し、1人生き残った戸田は終戦(日本の降伏)の約1か月前の1945年7月3日豊多摩刑務所から出獄[注 18]し、弾圧によって壊滅状態だった学会の再建に挑んだ[SG 103] というものである。








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