フランク王国 社会・経済

フランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 23:27 UTC 版)

社会・経済

フランク王国時代(西欧中世初期)の経済や流通、社会、都市と農村についての研究は多岐にわたる蓄積がある。しかし、時間的には5世紀に渡り、西ヨーロッパのほぼ全域を占めたフランク王国の社会経済について、一般的な説明は困難である。西欧中世史研究者の丹下栄は、流通・都市・社会分野において西欧社会のすべてを視野にいれた総合的叙述を行うのは研究史の現状からして不可能であると述べる[181]。そのためここではフランク時代の社会・経済について一般的に研究される各種テーマについて以下に述べる。

農村

メロヴィング期の農村

フランク王国ではパンワインを中心にするローマ時代の食習慣が継承された[182]。その原料となる小麦ブドウの生産は、ローマ時代のガリアでは、平野部に散在するウィラを中心に奴隷労働によって行われた(ラティフンディウム[182][183]。ここでは耕地を二分して地力回復のために1年ごとに休耕を繰り返す二圃制とよばれる輪作が一般的に行われていた[182]。ほかにブドウ畑と放牧地が畑とは別の場所にあった[182]。一方、フランク人をはじめとするゲルマン人たちも農耕の伝統を持っていたが、その技術は未発達であり、狩猟採集、そして牧畜が未熟な農業を補っていた[184]。ゲルマン人の食生活において、牧畜はローマ社会におけるよりはるかに重要であり、ブタウシチーズバターなどの畜産品は、ゲルマン人の必要カロリーの3分の2近くをまかなっていたとする説もある[185]。フランク王国時代、この2つの生産様式がまじりあい、次第に中世ヨーロッパの農業スタイルを形成していくことになる[185]

すでに3世紀からガリアの人口は減少傾向にあったが、5世紀に始まった小氷期による気候の寒冷化や治安の悪化、政治情勢の混乱、さらには疫病によってメロヴィング時代初期には人口減少が加速し、6世紀後半には人口は底辺に達した[186][187]。7世紀には人口は回復し始め、特にガリア北部でゆっくりとだが人口は増加した[186]

この時期のメロヴィング期の農村の状況については、無論地域的な多様性があったが、考古学的調査によって一般的な仮説を用意できるほどに理解されるようになっている[183][188]。当時の一般農民の家財道具は一般に非常に貧弱であり、鉄製農具はほとんど見つかっていない[189]。住居そのものも数本の柱で造られた3メートル×4メートルほどの狭い小屋であり、これが30軒ほど点在するようなものが、一般的な集落の形態であった[189]。このような集落の在り方は、古代に比べ農村に対する貴族の影響力が弱かったことを表していると見られる[190]

ローマ時代には都市の需要を満たすために大規模に実施されていたラティフンディウム制は衰退し、より狭域で完結する農村経済が取って代わった[191]。需要の減少は耕作地の縮小をもたらした。ヨーロッパでもっとも森林が広がったのが500年ごろであることが、花粉樹幹の分析によってわかっている[191]

ローマ時代から続くウィラのあるものは放棄され、あるものは6世紀後半まで定住が維持されたが、その場合でも居住面積の縮小、設備機能の変化が見られる[192]。明らかにウィラが結びついていた経済システムの変容がその衰退を招いていたと考えられる[192]。古代の石造のウィラは、木造のそれに代えられたが、王や有力者の権威を表す記号として、都市に居住することと同じくウィラでの居住は有効であった[192]。このようなウィラは30メートル以上の長さを持つ、大広間を備えた主人の家と、それに従う人々の小さな家々、家畜小屋、穀物庫、貯蔵施設などからなった[192]

カロリング期の農村

カロリング期に入ると、気候の安定と国王や修道院による大所領の形成とともに農村は大きく発展した[189]。8世紀から9世紀にかけて、1,000ヘクタール以上の規模におよぶような所領が発展し、その経営のために領地や収支を列挙する台帳(所領明細帳)が作成され、当時の農村経営を現代に伝えている[193]。修道院所領に代表される大所領は領主直営地と農民保有地によって構成され、農民は第一に家屋と菜園、第二に農耕地(農民保有地)、第三に飼料の刈り取り地や、牧草地、放牧地や森林などからなる共同利用地の用益権の三要素を経営の基本単位として自立した経営体を形成していた[193][194]。この三要素はフーフェ(独:Hufe)、あるいはマンス(仏:Manse)と呼ばれ、基本経営単位として農民一世帯ごとに設定されていた[195]。このフーフェ(マンス)は領主が賦課税を行う単位でもあった[195]。ただし均一な単位としては成立しておらず、その大きさは地域によりまちまちであった[194][195]

カロリング時代の所領経営では、農民の身分や課税内容は一様ではなく、村落共同体と呼べるような農村組織もまだ存在していなかった[196]。その代わり、所領の枠組みの中で、領主直営地と農民保有地に関わる労働が、フーフェ(マンス)を保有する農民によって担われており、この意味で所領が農民生活の社会的単位を構成していたと言える[196]。このような領主制のありかたは古典荘園制と呼ばれる場合が多い[196][注釈 19]

実際に「古典荘園制」下にある農村の例として、パリの北東20キロにあるヴィリエ・ル・セックフランス語版バイエ・アン・フランスフランス語版で当時の遺跡が発掘されている[197]。この2つの集落はカロリング期の典型的な集落であると考えられ、当時の大所領のひとつであるサン=ドニ修道院に所属していた[197]。長さ12.5メートル、幅5、6メートルの長方形の母屋と、縦横数メートル程度の高床建築、あるいは竪穴建築の付属建造物が2、3棟あるまとまりが複数散在していたことが確認されており、それぞれが1つのフーフェ(マンス)を構成していたと推定されている[197]

栽培植物はメロヴィング期にはわずかな麦類のみだったのに対し、カロリング期には各種の麦類のほか、ソラマメエンドウマメニンジンなどの野菜類や、リンゴブドウなどの果樹、工芸用の亜麻など、多角的な農業が行われていたことが確認されている[200]。家畜はウシブタヒツジヤギウマの順で多く発見され、時代とともにウシとウマの比率が上昇し、ブタが減少している[201]。特に8世紀を境にウマは倍増しており、農耕や運搬にウマが使用されるようになったことを反映していると考えられる[201]

交易と流通

ゲルマン人の侵入と各種の社会混乱の中で西ローマ帝国が崩壊したあとも、地中海を中心とするローマ世界が解体したわけではない[202]。メロヴィング朝時代のフランク王国においても、地中海交易はかつてのローマ時代から継続して活発に行われ、王国中枢であったガリア北部へも継続して地中海交易による物資がもたらされていた[202]。この分野における研究で20世紀半ばに一時代を期したアンリ・ピレンヌは、サン=ドニ修道院コルビー修道院英語版がプロヴァンスの都市マルセイユなど、地中海沿岸の流通税徴収所から物資の供給を受けていたことを例証としてあげている[202]。ここで集められた物資の中にはパピルス胡椒、そして各種の奢侈品など、いわゆる東方物資が数多く含まれていた[202]

こうした交易活動は上でも触れた流通税に関する記録から知ることができる。中世ヨーロッパの全期間を通じ、流通税は物資の流通と権力構造を映す鏡であり続けた[203]。流通税はポルトリウム(portorium)またはテロネウム(teloneum)と呼ばれる帝政ローマ時代の制度に源流を持ち、商品の通過と取引に課税される間接税であった[203]。メロヴィング朝時代にはこの流通税はローマ時代とほとんど変わらない運用がされていたとされ、王国の役人が管理する流通税徴収所で徴収され国庫に納められた[203]。この流通税は王国の財政上きわめて重要であり、これを統括する役人は伯と同格とされた[203]。一方で流通税徴収所には物品の一時保管所が付属し、輸出入品の一時保管機能が提供されるなど、交易活動に必要な機能の一部を提供していた。したがって、単純に国家が交易活動から利益を徴収するための存在であったとのみ見ることはできない[204]

流通税徴収所と並び流通構造に大きな意味を持っていたのがキウィタスである。これはローマ時代、さらにはそれ以前のケルト時代からの伝統を引き継ぐもので、一種の行政単位であった。帝政ローマ時代にはキウィタスの中心地には司教座が置かれ、地域の中心としての役割を果たすようになった[204]。キウィタスでは市が開かれ、財貨の交換がきわめて日常的に行われていたことが、トゥールのグレゴリウスなどによって記録されている[204]

ローマ世界の延長線上にある側面が色濃いとされるメロヴィング朝時代の流通構造は、7世紀に入るとカロリング期に向けて緩やかな構造変化を開始した[205]。大きな影響を持ったのは、ガリア北部に数多く建設された修道院が次第に経済力を強め、生産と流通の拠点として現れてくること、金本位制が衰退し銀貨が急速に普及すること、地中海交易の重要性が相対的に低下すること、そして北海バルト海方面での交易活動の活発化であった[205][注釈 20]。特に北海・バルト海方面での交易活動は、ワイン穀物毛織物、金属製品や武具などの生活要因が大半を占め、地中海交易に特徴的な奢侈品が存在しないことが特徴であり、交易主体の多様化を示している[208]

カロリング期にはこの構造的変化はさらに加速し、流通構造は重層的な姿を示すようになった[209]。地中海交易はメロヴィング期に引き続き途絶えていないことが、流通税徴収所に関する記録から明らかになっている[210]。また、カントヴィク英語版ドレスタット英語版を拠点とした北海・バルト海交易はフランク王国にとって第一級の意味を持つものに成長した。サン=ドニの年市にはアングロ・サクソン人やフリーセン人の商人が集まり、各種の商品を取引した[210]。そして、修道院に代表される聖界領主が経済力を強めるとともにフランク王から流通税免除特権を獲得し、さらに領民の労働賦役による物資運搬によって市場との結びつきを恒常化していった[211]。こうした流通構造の重層的構造は、地域経済、そして中世盛期以降の発達した国際的流通の基礎的条件のひとつとなっていった[212]

通貨

クロタール3世の硬貨

西ローマ帝国の終焉のあとも、フランク王国の支配地の大部分は程度の差はあれ貨幣経済に依拠していた[213]。フランク王国ではローマの幣制が継続していたが、6世紀には自ら造幣を行うようになった[214]。当初は東ローマ帝国の金貨の模造を行っていたが、次第に王名入りの金貨を発行させるようになった[214][215]。確認できるもっとも古い王名入り金貨は、テウデベルト1世(在位:533年 - 547年)が造らせたものである[214][215]。また、ローマ時代のソリドゥス金貨の3分の1の重量であるトリエンス貨の造幣が優勢となり、ローマ幣制からの緩やかな離脱が起きた[216]

フランク王権は長らく造幣権を独占することができず、こうした貨幣は各地の造幣人(monetarii)に委託されて王や有力者の名の下で製造されており、造幣人と造幣地が刻まれていた[214]。しかし、各地の造幣人の都合によって貨幣の重量や品質がまちまちであったうえ、の供給源に乏しかったことから、メロヴィング期を通じて金貨の質は低下し続けた[215][217]。市場におけるフランクの貨幣の信用は低く、決済手段としてはきわめて品質が安定していた東ローマ帝国の貨幣(ノミスマ)を用いるか、貨幣を融解したり、純地金を秤ったりして行うことが広く行われた[217]。また、次第に金貨の流通は下火となり、銀貨による決済が広がっていった。7世紀後半にはフランク王国でデナリウス銀貨が発行されたが、品位が悪かったことから、イングランドの諸王国で発行されたシャット銀貨(初期デナリウス銀貨)による支払が行われ、フランク王国とイングランドで急速に普及した[218]

こうした状況に対し、カロリング朝は通貨体制の構築に力を注いだ[219]。このことはカロリング朝の諸王が熱心に幣制改革を行っていることから確認できる[219][217]。ピピン3世は即位直後の754年に貨幣の重量改革を行い、金貨造幣を停止して銀貨のデナリウスのみを発行することに決め、銀貨の標準重量を上積みした。また、12デナリウスが1ソリドゥス(金貨)、20ソリドゥスが1リブラという上位の計算貨幣の単位も設定された[219][220]。この関係はその後の西欧諸国の通貨体制の基本として受け継がれていく[219]。さらにカール1世(大帝)はデナリウス銀貨の重量をさらに上積みする幣制改革を実施した。これの理由については、東方の金の高値に対する対策や新たな銀鉱の開発が行われたこと、冬の飢饉による穀物価格高騰に対する購買力の強化などの説がある[219]794年のフランクフルト公会議では、この新デナリウス(novi denarii)の普遍的な受け入れが命じられ、その後も繰り返された[219]。しかし新デナリウス貨は小額の取引に向かず、市場ではデナリウス貨幣を勝手に半分にするなどの行為が横行したため、少額貨幣の需要に応えるべくデナリウスの半分の価値のオボルス貨も発行された[221]。さらに品質を維持するため造幣権の独占が試みられ、貨幣の私鋳を厳しく禁止するとともに、805年には造幣を宮廷に限定することが定められた[221]。カール1世の幣制改革は、北海貿易の隆盛を背景に、同時期に行われたブリテン島のマーシア王国のそれと並行して行われており、この時期にフランク王国とイングランドではほぼ共通の幣制が整えられた(デナリウス=ペンス、ソリドゥス=シリング、リブラ=ポンド)[220]

このような金貨の造幣停止と銀貨の普及は、かつては遠隔地交易の衰退と自然経済への退歩を示すものとされてきたが、近年においては当時のフランク王国で交易活動の衰退は認められず、農業生産もむしろ拡大傾向にあったと考えられており、この現象は生産力上昇を背景として広範な生産者が貨幣経済に参与したことによるものと考えられている[212]


注釈

  1. ^ この名前は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である[3]
  2. ^ ベルギーとオランダにまたがる地域。
  3. ^ ブルグント族は後にフン族との戦いで壊滅的な損害を被り、サバウディア(サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した[10]
  4. ^ この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定して命名されていることは明らかである[28][27]
  5. ^ ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガ英語版と、アルヌルフの息子アンセギゼル英語版の息子。グリモアルドの甥にあたる。
  6. ^ ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で旧約聖書の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある[57]
  7. ^ カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺したアインハルト(エジナール)は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し[83][84]、カール1世にとって皇帝戴冠は青天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない[84]。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない[83]。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている[82]
  8. ^ Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、エーヴィヒ 2017, p. 103に依った。
  9. ^ このストラスブールの宣誓は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している[95]。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代高地ドイツ語の書物が編纂されていた[95]
  10. ^ ロタール1世にはリエージュ、ルートヴィヒ2世にはフランクフルトインゲルハイムヴォルムス、シャルル2世にはランソワソンパリ、オワーズ、コンピエーニュなど、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた[99]
  11. ^ イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。イタリア語式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。
  12. ^ ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である[126]」。
  13. ^ カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった[133]。このような捉え方は日本の歴史学会においては山田欣吾が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている[134][135]
  14. ^ a b ガロ・ローマ人(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概ね現代のフランスに相当する地域)に住むローマ系住民を指す学術用語である。あくまでも現代歴史学の用語であり、古代ローマ時代およびフランク王国時代にこれに対応する概念が存在していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語について「私たちはガロ=ローマ人について、二十世紀の立場で語っているが、五世紀には、また、そのあとの何世紀かにも、そのような呼び名は存在しなかった。ガリアでは、読み書きのできる人々は、自らを『ローマ人』であり、普遍的帝国とローマ文化の継承人と考えていた。」と述べ、ガロ=ローマ人とは(ガリアに住む)キリスト教徒ローマ人であるとしている[228]。ローマに対する「ガリア民族意識」というものはいかなる意味でも存在しなかったのであり、ガリア人とは諸民族に君臨すべきローマ人の一部であった[228]
  15. ^ 6世紀の伯(comes)の半数前後はガロ・ローマ系の名前を持っていた[147]。フランク時代の伯、ないし都市伯(comes civitas)はローマ帝国末期の都市伯にその起源を持っていると考えられ、フランク王国がローマ領ガリアの接収にあたりローマ的要素を大幅に採用しなければならなかったことを示している[147]。7世紀にはその多くがフランク系となっており、伯(comes)職のフランク化が進んでいたことが見て取れる[147]
  16. ^ 伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。10世紀に完結した形をとって現れる五大公領(ザクセンフランケンバイエルンシュヴァーベンロートリンゲン)はそのような部族の再結集した姿に他ならないとされ新部族大公国(領)と言う用語で呼ばれてきた。しかし、ドイツの中世史学者ヴェルナーは、この「部族」と言う概念が実態のない学術上の造語に過ぎず、(例えばロートリンゲン族という部族が存在しない事は歴史上明白である)これらの大公国は直接部族(エトノス)に繋がるものでは無く、何よりもフランク王国の行政上の単位として成立したものであると主張した。この考え方は、各地域の差異を無視しているという批判はあるものの、ドイツ史学界においてその基本的な主張は受け入れられている[155]
  17. ^ このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる[161]アメリカの中世史家リン・ホワイトはブルンナーの説を踏襲するが、フランクの騎兵制創出をトゥール・ポワティエ間の戦いではなく、鐙の導入を契機とするとしている[161]。中世史家森義信はこうしたブルンナーやホワイト以来の定説は史料上の根拠が薄弱であり近年(1988年頃)の歴史学・考古学の成果に照らすと既に説得力を失っているとして、これらを「古典学説」と呼んでいる[177]。ただし21世紀でも、この定説に沿った説明がなされる例は多く、例えば日本の歴史学者では堀越宏一がホワイトの説と同様の論を概説書に掲載している[172]
  18. ^ 聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている[178]
  19. ^ 古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部であるロワール川ライン川の間の地域に限られ、他の地域では十分に発達しなかったことがアドリアン・フェルフルスト(Adriaan Verhulst)により強調された。しかし、フェルフルストは同時に、所領を古典荘園制的構成に再編しようとする動きが広く西欧各地で見られることを指摘し、実際の実施の程度がまちまちであっても同時代の理想的な所領構造として位置付けられるという新しい見解を示唆した。1980年代以降には古典荘園制が再評価されるとともに、これについての見解は相対化され、その位置付けも論者により多様なものとなっている[197][198][199]
  20. ^ このような構造変化をアンリ・ピレンヌはイスラーム勢力による地中海東岸、南岸、イベリア半島の制圧により、コンスタンティノープルを中心とする地中海世界が消滅した結果、地中海の東西を結び付けていた政治・経済関係が遮断され、カロリング朝時代に入る頃のフランク王国ではローカルな閉鎖的経済への移行を余儀なくされたものであるとした[206]。更にイスラームの地中海制圧が、フランク王権とローマ教皇権の歩みよりをも惹起し、独自の西ヨーロッパ世界の確立につながったとした[207]。このピレンヌの明解な見解(ピレンヌ・テーゼ)は多くの研究者に多大な影響を与えた。現代ではこれは各種の批判に晒されているものの、研究史を概観する際には常に触れられる。
  21. ^ ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた[230]。ただし、ローマ系住民の行政組織はフランク王国の全土に適用される「国家法」の起源となったが、その実効性は王国の部分ごと、部族ごとに大きな隔たりがあった[230]
  22. ^ トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からはラングルリヨンクレルモンの司教を輩出している[242]。そしてグレゴリウス自身はトゥールの司教職をシギベルト1世から拝命し、死ぬまでその地位にあった[242]。彼はクローヴィス1世のカトリック改宗を極めて重要視しており、その記述によれば、「フランク人たちはローマ帝国を破壊しなかった。彼らは、カトリック教徒になることによってローマ人になったのである。」(ミシェル・ソによる要約)とされた[243]
  23. ^ ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている[247]
  24. ^ こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している[249]
  25. ^ カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのようなイタリアの知識人たちが遠征を通じて集まった他、アルクィンのようなブリテン諸島出身者も大きな役割を果たした。ブリテン諸島ではラテン語の古写本の残存状態が良く、ブリテン諸島の聖職者たちとともに質の良い写本がフランク王国にもたらされた。独自の修道制を発達させていたアイルランド人の修道士は、独特の風貌で奇異の目を向けられたが知識の豊富さでは定評があり、ランの司教座学校では教師の大部分をアイルランド人が占めた。イスラームの支配下にあったヒスパニアからは聖職者がフランク王国に移動し、教理論争に参加し西ゴート時代の貴重な写本をもたらした[261]
  26. ^ これは現代の欧文では全く常識的なことであるが、8世紀以前のギリシア語ラテン語の文書では単語と単語の間に空白が置かれることはなく、全て一繋ぎで文章が綴られていた[266]
  27. ^ 合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている[266]

出典

  1. ^ a b c d e 五十嵐 2003, p. 317
  2. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 134
  3. ^ 渡部 1997, p. 45
  4. ^ 五十嵐 2003, pp. 317-318
  5. ^ a b c d 五十嵐 2003, pp. 318
  6. ^ 西洋古典学辞典 2010, p. 648 「シルウァーヌス」の項目より
  7. ^ a b c d e f 五十嵐 2003, p. 319
  8. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 16
  9. ^ 佐藤 1995a, p. 129
  10. ^ 西洋古典学辞典 2010, p. 1065 「ブルグンディオーネース(族)」の項目より
  11. ^ a b 佐藤 1995a, pp. 129-130
  12. ^ ル・ジャン 2009, p. 17
  13. ^ ル・ジャン 2009, p. 7
  14. ^ a b 佐藤 1995a, p. 136
  15. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 137
  16. ^ ル・ジャン 2009, p 18
  17. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 19
  18. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 138
  19. ^ a b c d e 五十嵐 2003, pp. 326
  20. ^ a b c d e f 五十嵐 2003, p. 328
  21. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 140
  22. ^ 渡部 1997, p. 51
  23. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 25
  24. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 24
  25. ^ ル・ジャン 2009, pp. 25-26
  26. ^ 渡部 1997, p. 52
  27. ^ a b c d e ル・ジャン 2009, p. 26
  28. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 141
  29. ^ 渡部 1997, p. 53
  30. ^ a b c d e f g ル・ジャン 2009, p. 27
  31. ^ a b 佐藤 1995a, p. 143
  32. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 28
  33. ^ 佐藤 1995a, p. 144
  34. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 145
  35. ^ a b c ル・ジャン 2009, p. 29
  36. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 146
  37. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 147
  38. ^ ル・ジャン 2009, p. 30
  39. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 148
  40. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 31
  41. ^ a b c d e f g h 佐藤 1995a, p. 149
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐藤 1995a, p. 150
  43. ^ ル・ジャン 2009, pp. 32-33
  44. ^ a b c d e f g h i j k 佐藤 1995a, p. 151
  45. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 33
  46. ^ a b c d e f g h 佐藤 1995a, p. 154
  47. ^ ル・ジャン 2009, p 36
  48. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 155
  49. ^ a b c バラクロウ 2012, p. 63
  50. ^ 佐藤 2013, pp. 15-16
  51. ^ a b ル・ジャン 2009, p. 37
  52. ^ a b c 斎藤 2008, p. 133
  53. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 156
  54. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 157
  55. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 24-25
  56. ^ a b c d 渡部 1997, p. 69
  57. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 25-26
  58. ^ エーヴィヒ 2017, p. 26
  59. ^ a b 斎藤 2008, p. 134
  60. ^ a b エーヴィヒ 2017, p. 34
  61. ^ バラクロウ 2012, pp. 74-75
  62. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 158
  63. ^ 渡部 1997, p. 70
  64. ^ 佐藤 2013, pp. 21-22
  65. ^ a b 五十嵐 2010, p. 87
  66. ^ 五十嵐 2010, p. 88
  67. ^ a b c d 五十嵐 2010, p. 89
  68. ^ 五十嵐 2010, pp. 90-91
  69. ^ a b c 五十嵐 2010, p. 92
  70. ^ 佐藤 1995a, p. 159
  71. ^ 五十嵐 2010, p. 93
  72. ^ 佐藤 2013, pp. 22-23
  73. ^ 斎藤 2008, p. 135
  74. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 160
  75. ^ バラクロウ 2012, p. 78
  76. ^ a b c 佐藤 2013, pp. 34-37
  77. ^ バラクロウ 2012, p. 79
  78. ^ 佐藤 2013, pp. 28-30
  79. ^ a b c d バラクロウ 2012, pp. 79-84
  80. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 78-86
  81. ^ 渡部 1997, p. 72
  82. ^ a b バラクロウ 2012, pp. 93-100
  83. ^ a b c エーヴィヒ 2017, pp. 101-103
  84. ^ a b 佐藤 2013, p. 85
  85. ^ 佐藤 1995a, p. 161
  86. ^ 佐藤 1995a, pp. 162-163
  87. ^ 佐藤 2013, pp. 88-89
  88. ^ 渡部 1997, p. 74
  89. ^ 渡部 1997, p. 75
  90. ^ a b c 渡部 1997, p. 82
  91. ^ a b c 渡部 1997, p. 83
  92. ^ a b c d 佐藤 1995a, p. 163
  93. ^ a b 渡部 1997, p. 84
  94. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 164
  95. ^ a b c d e 渡部 1997, p. 88
  96. ^ a b c d 渡部 1997, p. 86
  97. ^ a b c d e 佐藤 1995a, p. 165
  98. ^ a b c d e f 佐藤 1995a, p. 166
  99. ^ a b c d 佐藤 1995a, p. 168
  100. ^ エーヴィヒ 2017, p. 157
  101. ^ a b 佐藤 1995a, p. 169
  102. ^ a b c d e 渡部 1997, p. 90
  103. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 170
  104. ^ エーヴィヒ 2017, p. 164
  105. ^ a b c d e f 渡部 1997, p. 91
  106. ^ a b c d e f g 佐藤 1995a, p. 171
  107. ^ a b 渡部 1997, p. 92
  108. ^ 斎藤 2008, p. 138
  109. ^ a b エーヴィヒ 2017, p. 202
  110. ^ 渡部 1997, p. 93
  111. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 172
  112. ^ a b c d e f g h i j 斎藤 2008, p. 139
  113. ^ a b 渡部 1997, p. 94
  114. ^ a b 佐藤 1995a, p. 175
  115. ^ a b c 佐藤 1995a, p. 176
  116. ^ a b c 渡部 1997, p. 98
  117. ^ a b c 渡部 1997, p. 99
  118. ^ a b 渡部 1997, p. 100
  119. ^ a b 斎藤 2008, p. 140
  120. ^ a b c 五十嵐 2003, p. 316
  121. ^ a b 五十嵐 2003, p. 320
  122. ^ a b c 五十嵐 2003, p. 324
  123. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 41-43
  124. ^ 加藤 2011, p. 59
  125. ^ 五十嵐 2003, p. 323
  126. ^ ル・ジャン 2009, p. 40
  127. ^ 五十嵐 2003, p. 327
  128. ^ 加藤 2011, p. 56
  129. ^ a b 加藤 2011, p. 62
  130. ^ 佐藤 2013, pp. 28-31
  131. ^ エーヴィヒ 2017, pp. 53-58
  132. ^ 森 1998, p. 244
  133. ^ 山田 1992, p. 33
  134. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 107
  135. ^ 五十嵐修、「「王国」・「教会」・「帝国」--9世紀フランク王国の「国家」をめぐって」『人文・社会科学論集』 2005年 23号 p.1-52, NAID 110004867203, 東洋英和女学院大学
  136. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p. 46
  137. ^ シュルツェ 2013, p. 145
  138. ^ a b c ル・ジャン 2009, p 47
  139. ^ a b c d ル・ジャン 2009, p 48
  140. ^ a b 佐藤 1998, p 30
  141. ^ シュルツェ 2013, pp. 122-124
  142. ^ a b c 渡部 1997, p. 60
  143. ^ a b c d e f 森 1995, p. 99
  144. ^ 森 1988, p. 280
  145. ^ 森 1988, pp. 276-277
  146. ^ 森 1988, p. 286
  147. ^ a b c 森 1988, p. 275
  148. ^ a b c 森 1988, p. 272
  149. ^ a b 石川 1969, p. 92
  150. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 5
  151. ^ a b 森 1988, p. 296
  152. ^ 山田 1992, p. 196
  153. ^ a b c d e 森 1988, p. 347
  154. ^ a b c d e 森 1988, p. 348
  155. ^ 山田 1992, pp. 194-199
  156. ^ 山田 1992, p. 198
  157. ^ ブウサール 1973, p. 48
  158. ^ 渡部 1997, p. 71
  159. ^ a b c d e f 森 1988, p. 85
  160. ^ a b c 森 1988, p. 86
  161. ^ a b c 森 1988, p. 69
  162. ^ a b 堀越 2013, p 85
  163. ^ a b c 堀越 2013, p 86
  164. ^ 堀越 2013, p 87
  165. ^ 堀越 2013, p 88
  166. ^ 森 1988, p. 33
  167. ^ a b c 森 1988, p. 38
  168. ^ 森 1988, p. 37
  169. ^ a b 森 1988, pp. 38-41
  170. ^ a b c d 森 1988, pp. 31, 41
  171. ^ 森 1988, p. 42
  172. ^ a b 堀越 2013, p. 84
  173. ^ 森 1988, p. 64
  174. ^ 森 1988, p. 67
  175. ^ エーヴィヒ 2017, p. 10
  176. ^ 森 1988, p. 68
  177. ^ 森 1988, p. 77_87
  178. ^ a b c 森 1988, p. 209
  179. ^ a b c 森 1988, p. 210
  180. ^ a b c d e 森 1988, p. 211
  181. ^ 丹下 1995, pp 167-169
  182. ^ a b c d 堀越 1997, p. 17
  183. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 98
  184. ^ 堀越 1997, p. 19
  185. ^ a b 堀越 1997, p. 20
  186. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 93-94
  187. ^ 堀越 1997, pp. 20-22
  188. ^ 堀越 1997, p. 21
  189. ^ a b c 堀越 1997, p. 22
  190. ^ ル・ジャン 2009, pp. 100
  191. ^ a b ル・ジャン 2009, pp. 102
  192. ^ a b c d ル・ジャン 2009, pp. 99
  193. ^ a b 堀越 1997, p. 23
  194. ^ a b シュルツェ 1997, pp. 171-173
  195. ^ a b c 堀越 1997, p. 24
  196. ^ a b c 堀越 1997, p. 25
  197. ^ a b c d 堀越 1997, p. 26
  198. ^ 森本 1969, p. 135
  199. ^ 佐藤,池上,高山ら 2005, pp. 9-10
  200. ^ 堀越 1997, p. 27
  201. ^ a b 堀越 1997, p. 28
  202. ^ a b c d 丹下 1995, p 170
  203. ^ a b c d 丹下 1995, pp 171
  204. ^ a b c 丹下 1995, pp 172
  205. ^ a b 丹下 1995, p 174
  206. ^ 大月 1998, pp. 214-215
  207. ^ 大月 1998, pp. 218
  208. ^ 丹下 1995, p 177
  209. ^ 丹下 1995, p 178
  210. ^ a b 丹下 1995, p 179
  211. ^ 丹下 1995, p 180
  212. ^ a b 丹下 1995, p 186
  213. ^ シュルツェ 2005, p.43
  214. ^ a b c d シュルツェ 2005, p.44
  215. ^ a b c ル・ジャン 2009, p. 111
  216. ^ 丹下 1995, p 175
  217. ^ a b c ブウサール 1973, p. 52
  218. ^ 丹下 1995, p 176
  219. ^ a b c d e f 山田 2010, p. 27
  220. ^ a b 丹下 1995, p 185
  221. ^ a b 山田 2010, p. 28
  222. ^ a b c d 佐藤 1995b, pp. 216-217
  223. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 70
  224. ^ a b 森 1998, p. 247
  225. ^ 山田 1992, p. 55
  226. ^ 加藤 2011, p. 57
  227. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 222
  228. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 27
  229. ^ 森 1998, p. 246
  230. ^ a b シュルツェ 2005, p.19
  231. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 223
  232. ^ a b 佐藤,池上,高山ら 2005, p. 17
  233. ^ a b c d 森 1998, p. 248
  234. ^ 渡部 1997, p. 77
  235. ^ a b 山田 1992, pp. 46-52
  236. ^ a b 森 1998, p. 249
  237. ^ 森 1998, p. 250
  238. ^ 森 1998, p. 251
  239. ^ 佐藤 1995a, p. 39
  240. ^ a b 佐藤 1995b, p. 225
  241. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 21
  242. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 22
  243. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 26
  244. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 226
  245. ^ 橋本龍幸、「『フランク史書』Liber Historiae Francorum(訳注)」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 2012年 27号 p.132-111, NAID 40019440946, 愛知学院大学
  246. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 90
  247. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 83
  248. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 88
  249. ^ a b 佐藤 1995b, p. 227
  250. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 91
  251. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 106
  252. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 101
  253. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 102
  254. ^ a b ブウサール 1973, p. 160
  255. ^ a b c ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 103
  256. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 104
  257. ^ 佐藤 2013, p. 69
  258. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 114
  259. ^ 佐藤 2013, p. 71
  260. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 118
  261. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 125-132
  262. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 115
  263. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 116
  264. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 119
  265. ^ a b c d e f g h i ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 141-147
  266. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 231
  267. ^ a b c 佐藤 1995b, p. 232
  268. ^ a b 佐藤 1995b, p. 235
  269. ^ ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 158
  270. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 184
  271. ^ ブウサール 1973, p. 164
  272. ^ a b c d e f ル・ジャン 2009, pp. 91-92
  273. ^ a b c 加藤, 益田 2016, pp. 197-201
  274. ^ a b 加藤, 益田 2016, pp. 201-204
  275. ^ a b c d e f ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, pp. 115-116
  276. ^ a b c d 加藤, 益田 2016, pp. 204-207
  277. ^ a b c d カウフマンら 2012, pp. 75-79
  278. ^ a b 那須 2013, pp. 320-323
  279. ^ a b 那須 2013, pp. 323-326
  280. ^ a b c d e f 那須 2013, pp. 326-330
  281. ^ a b c d ウィルケン 2016, pp.242-244
  282. ^ 加藤, 益田 2016, p. 100
  283. ^ a b 加藤, 益田 2016, pp. 105-106
  284. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 98
  285. ^ a b 加藤, 益田 2016, p. 107
  286. ^ a b c 橋本 2006, p. 155
  287. ^ 國原 1988, 解題 pp. 166-171
  288. ^ 岩村 2016, 訳者まえがき、pp. v-xiv
  289. ^ 三佐川 2017, pp. 276-287
  290. ^ 日向 2016, 解題 pp. 219-251






フランク王国と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランク王国」の関連用語

フランク王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランク王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランク王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS