フェニキア文字
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フェニキア文字 | |
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類型: | アブジャド |
言語: | フェニキア語 |
時期: | 紀元前1050年頃より、フェニキア人が衰退するまで使用された。 |
親の文字体系: | |
子の文字体系: | 他にも数多く存在すると言われる。 |
Unicode範囲: | U+10900-U+1091F (PDF) |
ISO 15924 コード: | Phnx |
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青銅器時代中期 前19–15世紀 |
メロエ 前3世紀 |
カナダ先住民 1840年 |
注音 1913年 |
原カナン文字を元とし、紀元前1050年頃より整備され、フェニキア人(古代地中海世界において現在のレバノン一帯を中心に活動していた民族)によって使用された。右から左に書かれた。
フェニキア文字は、現在使われているほとんどの音素文字(アルファベット、アブギダを含む)の源と考えられている。
概要
フェニキア文字は22の字母を持つ純粋なアブジャド(子音文字)である。すなわち、子音を表現する字母のみから構成され、母音用のいかなる記号も持たない。このような文字体系において母音は口伝えによって知り覚えるということになる。この特徴はフェニキア文字から生まれたアラム文字、ヘブライ文字、アラビア文字などにも受け継がれた[2][3]。
フェニキア文字と同系統の古い文字には楔形文字の字形を持つウガリット文字や、いまのイエメン一帯で使われた南アラビア文字があるが、文字体系はいずれも28-30字ほどを持つ。これに対し、フェニキア文字は22文字しかなく、フェニキア語において子音体系が簡素化したことの反映と考えられている[4]。
フェニキア文字はフェニキアの商人により欧州・中東へ広められた。それらの地域で様々な種類の言語を表記する為に使われるようになり、多くの後継文字体系が生み出された。現代の文字体系の多くが、各地に広まったフェニキア文字から派生したものだと考えられている。フェニキア文字の変化形であるアラム文字は、現代のアラビア文字とヘブライ文字の祖先である。
ブラーフミー文字もアラム文字が元になっているという説があり、インド系文字(インド、東南アジア、チベットで現在も使われている)の元となった。インド系文字は記号によって母音を表すアブギダである。
ギリシア文字はフェニキア文字の直系の後継であるが、特定の文字の音価は母音を表すように変更されアルファベットとなった。さらにこれを元としラテン文字、キリル文字、コプト文字などが生み出された。
歴史
解読
フェニキア文字などの西セム諸文字は、18世紀にジャン=ジャック・バルテルミによって解読された。バルテルミは1756年にパルミラ文字について、ギリシア語との二言語碑文をたよりに固有名詞を比較することで各文字の表す音を明らかにし、それから本文を同系の言語であるヘブライ語やシリア語の知識をもとに解釈することで一晩で解読に成功した。同様の方法でバルテルミはフェニキア語や帝国アラム語の文字も解読に成功した。バルテルミによる解読は古文字解読の最初の成功例であった[5]。
成立
フェニキア文字は多くの音素文字の源だが、さらにその源の最古の音素文字は紀元前2000年ごろに発明されたと考えられる[6]。発見されたものとしては、ルクソール近くのワディ・エル・ホルで発見された落書きや、シナイ半島のサラービート・アル・ハーディムで発見された文字があり(原シナイ文字)、紀元前1800年ごろのものと考えられている。
原シナイ文字の研究により、音素文字はエジプトのヒエログリフの知識を持ち、西セム語を母語とする労働者によって、ヒエログリフの字形をもとに頭音法の原理によってその文字が表すセム語の単語の最初の子音を取ったものという説が行われている。この説が立証されるには原シナイ文字の解読が正しいものでなければならないが、しかし現状では原シナイ文字の解読はすこぶる疑わしい[7]。
原シナイ文字を継承し、充分な資料のある最古の文字はウガリット文字(紀元前14世紀ごろ)で、27子音字と声門破裂音で始まる3つの音節文字を持っている。
パレスチナにも、原シナイ文字を継承した紀元前17-15世紀ごろの文字がいくつか発見されており、原カナン文字と呼ばれる。これが、フェニキア文字へ移行した。この移行は連続性が強く、移行時期を確定できないが、便宜的に紀元前11世紀半ば以降のものをフェニキア文字と呼んでいる。
フェニキア文字では文字の数が22に減少し、字形は抽象的になった。書字方向は安定して右から左へ書かれるようになった[8]。最古のフェニキア文字による碑文のひとつに棺に刻まれたアヒラム碑文がある(紀元前850年ごろ)[9]。
音素文字の拡散
現存するフェニキア文字の初期の碑文はフェニキア語を表記しているが、後にはアラム語、ヘブライ語、およびモアブ語(メシャ碑文に代表される)などの言語を表すためにも使われた。アラム語やヘブライ語はフェニキア語よりも多くの子音を持っていたため、1つの文字で複数の子音を表記した[4]。
フェニキア人による音素文字の採用は非常な成功を収め、さまざまな変種が地中海で前9世紀頃から採用された。さらには、ギリシア文字、古代イタリア文字、アナトリア半島の諸文字(リュディア文字、リュキア文字、カリア文字など)、イベリア文字へ発展していった。その成功の理由の一つは、音声的特徴にあった。フェニキア文字は一つの記号で一つの音を表す文字体系としては、初めて広く使われたものである。当時使われていた楔形文字やエジプト神聖文字等の他の文字体系では多くの複雑な文字が必要で、学習が困難であったのに比べて、この体系は単純だった。この一対一方式のおかげで、フェニキア文字は数多くの言語で採用されることになった。
フェニキア文字が成功したもう一つの理由は、音素文字の使用を北アフリカと欧州に広めた、フェニキア商人の海商文化であった[10]。実際、フェニキア文字の碑文ははるかアイルランドにまで見つかっている。フェニキア文字の碑文は、ビブロス (現レバノン) や北アフリカのカルタゴのような、かつてフェニキアの都市や居留地が多数あった地中海沿岸の考古学遺跡で発見されている。後にはそれ以前にエジプトで使われた証拠も発見されている[11]。
文字は元来尖筆で刻み込まれていたので、ほとんどの形状は角張って直線的であるが、より曲線的なものが次第に使われるようになり、ローマ時代北アフリカの新ポエニ文字と発展していった。フェニキア文字は通常右から左に書かれたが、牛耕式(行が変わるたびに書字方向を変える)で書かれた文章もある。
- ^ Osama Shukir Muhammed Amin (2017-09-01), Stele of Prince Kilamuwa from Sam'al, Ancient History Encyclopedia
- ^ ただしこれらの文字では子音文字がある程度母音を表記するためにも用いられた(準母音と呼ばれる)
- ^ Naveh (1987) p.62
- ^ a b O'Conner (1996) p.94
- ^ Daniels (1996) pp.144-145
- ^ Hackett (2004) p.367
- ^ Daniels (1996) p.25
- ^ Naveh (1987) p.53
- ^ Coulmas (1989) p. 141.
- ^ Daniels (1996) p. 94-95.
- ^ Semitic script dated to 1800 B.C.
- ^ Daniels (1996) p.29
- ^ ヘブライ文字の読みによる文字名。
- ^ この「意味」は研究者の推測に基づくが、研究者によって異論も少なくない。
- ^ ࠅという異体字もサマリア文字で用いられた。
- ^ a b 子音を表す。
- ^ 字母の組書きの発想は漢字や契丹文字を、音節ごとに一まとめにするという発想は漢字やインド系文字を、音素文字をベースに子音と母音をあらわす部分をまとめて音節的に書くという発想はインド系文字を、それぞれ参考にしたのではないかという説がある。しかし、インド系文字特有の随伴母音は一切採用されておらず、子音母音の独立字母を漢字の部首的に組み合わせ、更に音節末子音をひとつの音節内に書くという発想はインド系文字とは異なる。
- 1 フェニキア文字とは
- 2 フェニキア文字の概要
- 3 文字の呼び名
- 4 後継の音素文字
- 5 脚注
- 6 外部リンク
フェニキア文字と同じ種類の言葉
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