蓮田から三島へ連なる美学
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「蓮田善明」の記事における「蓮田から三島へ連なる美学」の解説
三島が17歳の時に「伊勢物語のこと」を掲載していた『文藝文化』昭和17年11月号に、蓮田は、「神風連のこころ」と題した一文を掲載していたが、これは、熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠著の『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評であった。三島は後年1966年(昭和41年)8月に神風連の地・熊本を訪れた際、森本忠(熊本商科大学教授)や未亡人の蓮田敏子夫人と料亭「おく村」で面会している。 三島没後に行なわれた池田勉・栗山理一・塚本康彦の鼎談の中で、栗山理一は、蓮田の「雅び」(天皇観)について以下のように語っている。 同じ雅びを論じても、僕なんかの考え方と蓮田の考え方とは、その淵源が違うわけです。(中略)僕が雅びということを考えたときには、日本の古典、文化というものを対象としたのですが、雅びはみやこびですから、それは都雅であり、その都の中心は天皇ですから、天皇が文化の淵源であられるという認識で雅びを考えたわけですが、蓮田はもう一つそこを乗り越えて、信念として絶対視するというところがあったのです。 — 栗山理一「雅を希求した壮烈な詩精神――蓮田善明 その生涯の熱情」 そして塚本康彦が、三島や保田與重郎の天皇観と、蓮田の天皇観とは違うのではないかと話をふると、栗山理一は、自身も三島と保田に近い立場だとし、池田勉は、「(保田や三島の天皇観は)観念的であり、傍観者の立場」で、蓮田については、「天皇の宮居の花守になるとか、御垣を守るとかいうふうな、ああいう国学者の純粋さを蓮田ははっきり持っておったと思うんですがね。これがやっぱり彼の生まれた火の国の激情というものだし、詩人の純粋さじゃないかと思うんです」と述べている。さらに塚本が、「三島は、蓮田さんの死をダシにして己れの想念を述べていたようなふしがある」とふると、栗山理一は、「(三島には)勝義の自己劇化があると思うんです。三島らしい非常に計算された生き方であって、それはそれなりに評価しなきゃならない」としている。 なお、池田勉は別の評論文の中で、蓮田の『神韻の文学』から「雲の意匠」のところを引用し、「〈雲――この形定まらず、あくまで定型や定律を否定しつづける雲も、ただ形式以前のつかみどころのない茫漠でなく、生命の根元の非常に美しいものをあらわしていると私には信じられてならなかった。……〉 蓮田の魂が想い描き、やがて昇り還っていった、雲の意匠による神話的世界を、三島もはやくから悲願として、心通わせるところのあったことが明らかであろう」と述べている 栗山理一も、他の一文の中で、古今集をよしとする三島が、林富士馬と1944年(昭和19年)に激しく論争したことを回想し、以下のように語っている。 そのころ三島は林富士馬君らを誘って私の家に遊びにくるようになった。あるとき、三島は林君とはげしく論争したことがある。林君は『万葉集』を推賞し、三島は『古今集』をよしとした。(中略)後年になって清水が広島大学を停年で退官した折り、大学の機関誌『国文学攷』が記念特集号を編み、三島が「古今集と新古今集」と題する一文を寄稿している。四十二年一月一日執筆と付記されており、論旨は『古今集』の特質を闡明した卓説である。作家としての出発の頃から一貫して変わらぬ三島美学の条理を改めて再認識したことであった。 — 栗山理一「蓮田のこと 三島のこと」 松本徹は、三島をめぐる保田與重郎と蓮田善明について、明確に異なる立場に立っているとし、三島が、保田ではなく蓮田の方に「結縁」したという見解を持っている。 蓮田は徹底した古典主義者であり、普遍的で公の、正統的秩序を第一とかかげていたのである。頽廃を口にしたが、それとても“みやび”“風雅”といった正統に繋るものであった。それに対して保田は浪曼主義者であり、独創を尊び、敗北とデカダンス、そしてイロニーを熱心に語った。すなわち、「あめつちをうごかす」ことを夢想しながらも、早々に断念したところに、立っていたのである。(中略)保田が敗戦という事態に耐え、やりすごすことができたのに対して、蓮田にはできなかったのも、このところと無縁ではなかろう。自らが“信従”したところのものに殉ずるよりほか、蓮田には、道がなかったのである。三島が、保田ではなく、蓮田に“結縁”したのも、まさしくこのゆえであろう。 — 松本徹「古今和歌集の絆 蓮田善明と三島由紀夫」 また松本徹は、三島と蓮田の主張の間には、ほとんど「径庭」(隔たり)がないとし、2人とも、「文学は、自然そのもの、また作者自身の自然的感情なり体験を語るものでなく、世界をおおっている文化秩序にあずかるところに、成立するものだ、という基本的態度を、わが国の王朝文化を踏まえて、徹底的に貫いている」と論じている。そして、三島に強い影響を与えた文学者として3人挙げ、「第一に指を屈すべきは蓮田善明である。ついで伊東静雄であり、もう一人は、焼跡で出合った林房雄であろうか」とし、「蓮田は少年期と晩年の三島にとって、優しい父親の役割を果たした」と考察している。 大久保典夫は、蓮田の文学を、「戦争による日本の国土と人心の荒廃におよそ蚕食されることを知らぬ超現実の絶対理念を志向した文学」だとし、蓮田の内部には「他者」はなく、その点において、自己の内部に「“明察”者という他者」が潜んでいた三島との決定的な違いがあり、三島は自身の中の「他者」を知悉すると同時に「純日本製の“絹”」、「純粋の武人」であった蓮田に憧れていたと考察し、大久保自身が雑誌『批評』同人として三島と接した経験から、三島が蓮田の全集を出したがっていた「切実な気持ち」が推察できたという。 また大久保は、小高根の著書の中で考察されている蓮田と三島の少年時代に共通する「“如何に死すべきか”で想定した結論から、逆にこれから生きてゆく軌跡を帰納しようという徹底した悟達ぶり」に触れ、2人の「早熟な天才」の間に感応があり、「三十八歳の蓮田が十七歳の三島氏におのれの十七歳を回想したように晩年の三島由紀夫も蓮田の享年に近づいてはじめて蓮田の憂国の至情を共有した」とし、三島の『檄』の中の「共に起って義のために共に死」のうという呼びかけには、蓮田の説く「死は文化である」という思想があり、それはそのまま2人の「天皇観」に繋がると述べている。 そして、三島が「はげしい右翼イデオローグの汚名を着た」と形容した蓮田文学と、保田與重郎との違いは「古典観」で、三島は保田ではなく蓮田の「直系」だと考察しながら、以下のように解説している。 わたしは、保田與重郎と蓮田善明の究極の違いを、ふたりの古典観に帰着するものと考えている。保田にとって、古典とは、彼の故郷の大和桜井にまつわる“風景と歴史”であったが、蓮田においては、超現実の絶対理念なので、その点、フィクションを信じられた(というより、信じようとした)三島由紀夫と非常によく似ている。 — 大久保典夫「昭和文学史の構想と分析」 日本浪曼派の作家だった伊藤佐喜雄は、「三島由紀夫は蓮田善明に倣いたいと希った」とし、「南方ジョホールバルでの蓮田さんのはげしい行動と死――その事実の闡明が『コギト』の小高根二郎によってなされたとき、三島君は自分自身の行動と死を決定したにちがいない」と語っている。福島鑄郎は、蓮田と三島の繋がりの意味について以下のように考察している。 神風連事件の思想の延長線上にあった蓮田善明の「死」こそが、三島由紀夫に寄りそいながら、すでに過去の遺物として吐瀉されてしまった日本の伝統をかたくなに見守ってきたのであった。それが現実と融合する時こそ三島由紀夫の生命は白炎と化し燃焼せざるを得なかった。 — 福島鑄郎「三島由紀夫の青春」 松本健一は、21歳の三島が亡き蓮田に献げた詩の中で、蓮田が隠れた(死んだ)「靉靆の雪を慕ひ」、戦後の時代を「塵土」に喩え、自分はその「塵土に埋れんとす」と詠んだことに着目しながら、戦後に三島が日本浪曼派を客観視する姿勢を見せながら、「仮面」の生として戦後の時代を生きていたが、その間にも、「三島の心の奥底に蓮田善明は悉く生きていた」とし、1959年(昭和34年)から連載開始された小高根の蓮田伝を読むにつれ、三島の中でその想いが蘇り、「みずからの精神の内部における蓮田善明のもつ意味について問い詰めざるをえなかった」と解説している。 新潮社の編集担当者だった小島千加子は、三島から直接『天人五衰』の原稿を手渡された「最後の日となった10月の締切日」における、蓮田にまつわる三島とのエピソードを綴っている。小島が昼食を三島邸で一緒に摂ってから帰る時、出掛ける用事のある三島と他社(教文社)の編集者と共に玄関から門のハイヤーまでの道すがら、三島と2人だけで佇んだしばらくの間、「このごろになって、ようやく蓮田善明の気持ちが分かってきたよ。善明が何を言わんとしていたのかって。善明は、当時のインテリ、知識人に、本当に絶望していたんだ」と話す三島の様子に一瞬、軍装姿のような幻影が見えたと語っている。 黒と白にはっきり分かたれた大きな強い目が、まともに私の方に向けられているかに見え、だが、私を通り越して天に注がれている。天にある善明の霊に訴えんとしているようでもある。おかしなことに、というより光線の具合であろうが、その眼差しをさえぎって額のところに、帽子のひさしがあるように錯覚した。(中略)事件を知り、走馬燈のように廻り出した私の記憶の中の一齣としてこの風景が蘇ったとき、三島さんの姿はただの背広ではない。制服制帽で口をきいているのだ。楯の会の制服姿なのか、あるいは蓮田善明の軍服姿と重なっているのか。後日、小高根氏の書をあらためて読み、時代を超えて善明の魂が三島さんにより添い、白昼の稲妻として共鳴音を立てたとしても、不思議ではない気がしている。 — 小島千加子「日々の分れ――死への一里塚」
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