蓮田から住宅地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:13 UTC 版)
1924年には(旧制)広島高校がこの地に開校したが、このことが翠地区を文教地区・住宅地に変貌させる大きな契機となった。広高の校舎が建設される際、付近の湿地は近隣の大河の丘陵を崩し採取された土砂によって埋め立てられ、校地の南側・東側に住宅が建てられたことがこの地区における宅地化の始まりとなったからである。さらに1930年(昭和5年)には広島電鉄宇品線の軌道移設で交通の便が向上すると、地区内に住宅団地が造成されて売り出され、宅地化はさらに進展した。その3年後、1933年には町名改正が実施され、それまで皆実町の南半部であったこの地区は「翠町」として分立した。 1945年8月6日の原爆投下に際しては爆心地から2.5〜3.5kmの位置にあったこの地区は半壊地域とされ2/3の家屋が半壊する被害を出したが、戦後には自宅を失った他地区の被災者がこれらの家屋に流入し、宅地が電車通りである宇品通りに沿った地域から急速に東に拡大し、地区の大半を占めていた蓮田を次第に浸食していった。また先述の通り戦前における旧制広高の設置は後年翠地区が文教地区として発展していく始まりとなったが、戦後、広高が京橋川対岸の広島大学に包括され同大学の教養部として改編されると、この地には広大に通勤・通学する教授・学生のための下宿屋・飲食店が軒を連ねるようになり、学生街として賑わった。これらの結果、昭和30年代から40年代にかけて地区の人口は急増して児童も増加し、1967年には皆実小学校から校区を分離して翠町小学校が開校された。 蓮田の広がる低湿地から急速に宅地として発展した翠町は住環境の整備が追いつかず、戦後も久しく道路が狭く排水も悪い水難地帯として知られていた。しかし小学校の開校前後には排水工事・道路整備が進み、また桜土手北側の水路も暗渠化されるなど環境は大きく改善された。また1980年代、広島大学が東広島市に移転すると学生街のイメージは薄まり、閑静な住宅街としての性格が強くなっている。1990年代になって地区の南北に広島市道中広宇品線、東西に霞庚午線が開通し地区内の街区も大きく変化するなど、再開発の波が及んでいる。
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