朝廷と唐王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
しかし、唐の第二代皇帝の李世民によって「貞観の治」が訪れる。630年に遣唐使として犬上御田鍬が派遣された。また、唐からは高表仁が来朝、冊封関係を要求したが朝廷はそれを拒否している。608年の遣隋使派遣に参加した者たちの帰国が632-640年に実現し、その内の僧旻・高向玄理は中大兄皇子の政治顧問(国博士)として645年からの大化の改新に貢献した。658年の阿倍比羅夫による蝦夷征伐を経て、朝廷は唐とその冊封関係にあった新羅による侵略で660年に滅亡した百済の復興をめざして唐の水軍と干戈を交えることになるが、663年の白村江の戦いで敗北を喫した。それ以後、朝廷は「安全保障」に目覚め北九州に防人、大宰府に水城をそれぞれ設置する。庚午年籍の作成を命じた天智天皇の皇位継承を巡って672年に壬申の乱が起きて、翌673年に天武天皇が即位すると天皇を中心とした中央集権体制が確立して「皇親政治」の時代が始まる。 「武韋の禍」で混乱していた唐との交流は701年から再開、唐への朝貢は続けることで日本という国号が認められ、大宝律令の完成で日本の律令国家体制が確立していく。多くの留学生(るがくしょう)・留学僧を唐に派遣し、唐の先進文化を吸収する一方で緊迫した東アジア情勢を把握することも遣唐使派遣の目的になっていく。唐の開元通宝を手本に和同開珎の鋳造が始まり、平城京は唐の長安を手本に整備された。阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成などが717年の遣唐使に随行し唐の文化を総合的に学ぼうとする態度が見受けられ、唐からは753年に鑑真らが遣唐使船で来朝して天平文化が花開く。しかし、755年に始まった節度使安禄山が蜂起した安史の乱によって8世紀の後半には均田制・租庸調制が崩壊するなど唐の国家財政を圧迫し、両者とも帰国を断念する傾向も生まれたが、804年の遣唐使派遣で随行した最澄・空海は帰国後に日本的な仏教の基礎を作り上げた。また、この頃になると短期で唐へ留学するものも現れたが875年の黄巣の乱で唐が実質的に崩壊すると、菅原道真は894年に遣唐使を廃止する建議を出した。10世紀の日本は藤原氏北家による摂関政治と国風文化が全盛時代を迎えるが、当時の平安貴族の間では白居易の『白氏文集』や『文選』などの漢籍は必須の教養とされていた。遣渤海使が811年に、渤海使が926年に終わると朝廷は対外消極策を採っていく。日本国内では荘園が発達し、地方の乱れが顕著になると武士が頭角を現し始めていった。一方、中国大陸は群雄が割拠する五代十国時代を迎える。以後は、少なくとも935年から957年にかけて呉越が日本との間に正式に国交を開き、往時ほどではないものの多少の貿易があった。また、遼と日本との間にも、僅かながらに私貿易が行われた。
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