教育者としての秋山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 00:53 UTC 版)
秋山が21世紀の現在もなお、その輝きを失っていないのは教育者としてである。すなわち秋山の功労、秋山の実践当時は先駆的な内容であったものが、その後80年近くを経て普遍的な基本要素となり、2020年現在の日本の高等学校教育において広く一般化されており、2022年以降の新たな日本の中等教育にもますます重要な基本要素として継承されていく。 そもそも秋山は子供好きで、学校の教師になるのが夢であった。明治9年(1876年)7月に官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)を卒業後、第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)に勤務したが、初期の官立師範学校卒業教員であることからすぐに抜擢され、愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)勤務となり、日本の義務教育の開拓と普及の分野で将来を託望される人物となっている。(日本の官立師範学校は、まずは各府県に教員養成学校を作るための人材を育成する機関(指導的教員養成機関)として明治5年から7年にかけて各大学区に設置され、全国府県がその卒業生を指導的教員として招聘するものとされた。秋山は愛知県に招聘された。)しかし薄給のため、特に弟、真之の生活費と学費を将来的にも工面できないことから、夢を叶えた直後にあきらめ、職業軍人に転向せざるを得なかったいきさつがある。 清国駐屯軍司令官として好古が帰国の際に、天津の領事館で送別会が開かれた。その席上、居留民を代表して伊集院彦吉総領事が金時計を送るも、「せっかくのご厚意なので現金で頂きたい」と言ったので、金品に無頓着である好古の意外な発言に驚いたが、本人の意思ということで現金の贈呈を決めた。すると好古は「只今頂いた現金はそのまま日本居留民小学校に寄付しますので、その教育資金としてください」と言った。 陸軍でも、教育に携わり、陸軍騎兵実施学校長など後進に育成に貢献して、最終的に陸軍三長官の内の教育総監という地位についている。 すなわち秋山は2020年現在の学校区分で小・中学校の教員経験者であり、旧制中学校、2020年現在の学校区分で、高等学校への赴任は初めてであった。秋山の北予中学校校長就任はその前年に郷里の友人、井上要から「学校長不在になることになってしまい困っている。名前だけでもかしてはくれないか。」と請われたことからであるが、これに対して秋山は実際、「俺は中学校のことは何も知らんが、他に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんでも奉職する。」と快諾、さらに井上要の、たまには学校に出てきて生徒たちと遊んでやってほしいの言に対し、ところで名前だけとはいかがなものか。中身がなければ(実際に学校に校長がいなければ)駄目であると単身、東京を離れて就任した。以降、辞任まで1日も欠勤せず、生家から登校したという。 秋山にとっての校長就任、校長職は元帥に勝る人生の最高位であった。校長に就任した秋山と植岡寛雄少将が語っていたとき、植岡が無遠慮に「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたのですか。」と尋ねたところ、秋山は怒ることもなく「これか。俺が今の地位(校長職)を得るまでの苦労は並大抵のことではなかった。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのように禿げてしまった。」と答えている。秋山は「男子にとって必要なことは、若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである」を信条とし、予備陸軍大将、それも三長官まで上った者としては例のない格下人事となった北予中学校奉職は、実は秋山自身の人生の総括を意味する、すなわち後世に結果を遺す重要なことであった。 秋山の本質は穏やかな性格の根っからの教育者、争いを好まぬリベラリストであり、第二次世界大戦後の民主教育者、すなわち現代民主主義国家の学校教育に通じる先駆的教育者として今日、評価されるようになっている。軍人時代の部下、犠牲者の霊を生涯に渡って弔い続け、当時の世界情勢から日本が次第に傾倒していく全体主義的な流れを嫌い、自らの功績を努めて隠した。中学校長就任後、生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」などと頼まれても「そんな昔のことを訊いて何になるのか。今は中学の校長である」と一切断り、軍服姿(もっとも軍服での登校を嫌い、軍服を着るのは指定されている時に限られていた。)の秋山の写真を生徒に販売しようとする動きがあった際には断固として止めさせ、武勲を披露することは無かった。そして「生徒は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らし、生徒が落ちついて学ぶことのできる環境を整えることに尽力している。 秋山は当時、先進的すぎて解らないの意味も含む「超教育家」とも評され、このことが秋山の軍人としての実績と相まって教育者としての秋山の先駆的業績の本質を20世紀の終わりまで埋もれさせることにもなった。当時、中学校の校長職はいわゆる名誉職であり、秋山のように正規に教員の資格を有し、教育現場での経験のある者が校長に就任し、毎日登校して直接に生徒に接することだけでも珍しく、加えて教育学的に研究した生徒教授まで実践というのは皆無に等しい状態であり、秋山は異例中の異例であったためである 秋山は社会的集団教育(普通学校教育)の目的を、21世紀の現在にも通じる「個人の確立(独立)による社会(国家)の確立(独立)」「個人の生活安定による個人の確立」「個人の生活安定のための個性(適性)の見出しと育成」と考えており、実学、勤労を重視し、生徒個人の人格形成、そのための個性・適性を見出して育てることに徹し、その実践として毎日、早朝から校門に立ち、登校してくる生徒ひとりひとりに挨拶をする、よく生徒を誉め、誉めるのと同時に、字をきれいに書きなさいといったことなどを丁寧に指導する、いつも微笑みをたたえて生徒の様子を眺めている校長であった。そして生徒に「もう私は老いている。私が死んでしまった時には、私の屍を踏み越えて未来に進みなさい」との訓示をする校長であった。 一方、秋山は生徒、教職員の不祥事は全て校長の責任に帰するものとし、在任中に何度も引責辞職願を理事会に提出、都度、驚かれて慰留されている。当時の中学校では全国的に、生徒のみならず教員も、遅刻、無断欠勤は普通であり、秋山はこの学校側の計画性のなさに中等教育の諸問題の根本がある、学生が独立している(自我が完成されている)ことを前提とした高等教育と、独立途上にある(自我の形成途上である)生徒を相手にする中等教育は異なるものであるとし、遅刻・欠勤した教員の担当授業を自ら代行し、定刻開始、定刻終了、欠課なしとしてみせた。すなわちこれは2020年現在言われているところの生徒の学習権保証のひとつである。しかし秋山は当該教員を叱責、処分することはなく、一身に自らの責任として自らを処分したことから、北予中学校では教職員の勤務態度が大きく変わり、遅刻・無断欠勤をする者がおよそいなくなり、教員は自主的によく勉強し、各々が学習指導計画を立てて実行するようになった。この実践と成果は全国に新聞報道され、全国の中学校、女学校などの中等教育機関で、授業の定刻開始、定刻終了、欠課なしが実施されるようになり、併せて中等教育に携わる教員の自主性とその責任範囲について明確化させるものとなった。 さらに特筆されるのは、当時珍しかった朝鮮への修学旅行の実施である。これは全く支配者としてではなく、関東大震災での朝鮮人虐殺事件に心を痛めた秋山が、生徒たちの異文化への理解や敬意を育むために考え、実施したことであった。 そして最晩年の世界大恐慌の際には、国際協調の観念を涵養する大切さを生徒たちに説き、デンマークはもとは貧しい国であったが、国民の農地改良によって豊かになった例を紹介し、日本も国民の勤労さえあれば必ず大丈夫であると説き続けたことなどである。 つまり2020年現在も続いている日本の高等学校教育の重要な基本部分を構築した1人が秋山であり、教育界でも猛将となった秋山の功労もあって、その後の太平洋戦争、日本の敗戦と占領、学制改革によっても、日本の中等学校教育はその軍国主義的な内容を除いただけで温存され、日本の各中等教育学校の伝統文化がそれぞれの新制高等学校に継承され、今日に至ることになっている。 なお秋山のこれらの教育方針と実践は現在の愛媛県立松山北高等学校の校長室に秋山直筆の「荒怠相誡」(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)としてなお掲げられ、同校校訓のひとつ「心」と一致し、2020年現在の同校教育方針である「自立・進取・敬愛を重んじ、豊かな人間性と社会性を養うとともに、個性や能力を生かす教育の充実を目指し、平和な国際社会に貢献できる国際感覚豊かな人間を育成する。」とも一致している。 秋山は書に長けており、揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。
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