教育者としてのショーペンハウアー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:37 UTC 版)
「反時代的考察」の記事における「教育者としてのショーペンハウアー」の解説
本評論はニーチェのショーペンハウアー観が如実に受け取られ、この中で提示された「3つの人間像」なるものは、後の思想的展開の根幹にあたる部分とも言える。 「我らの近代が次々に提示した」ドイツ文化の3つの主要な人間像、それは「ルソー的人間、ゲーテ的人間、そして、ショーペンハウアー的人間像である」と、ニーチェはここで述べている。まず、ルソー的人間は「最大の火」を持ち、「最も通俗的な影響を及ぼす」。ルソー的人間は、「自然だけが善だ、自然人だけが人間だ」と叫ぶことによって、実は現にある自分を「否定」して、自己自身を超えて「憧れる」存在である。なので、この人間像はしばしば激烈な革命への希求が現れる。強い現実否認と、本来的なものへの憧れがその特質である。 これに対して、ゲーテ的人間はルソー的人間が身を委ねた過激な興奮の「鎮静剤」である。ゲーテ的人間は「高次の様式における静観的人間」となり、「保守的・調和的な力」をもつ。故に、また彼は、俗物に堕する危険も含んでいる。 では、ショーペンハウアー的人間とは何者か。ここにはニーチェの力点がある。ゲーテ的人間が欠いているのは、自然的粗野、メフィスト的な「悪」である。そして、まさしくその点でショーペンハウアー的人間が我々を鼓舞してくれる。ショーペンハウアーがゲーテ的な「単に観想すること」の上に付け加えたのは、人間の自己自身に対する「誠実」の能力である。つまり、「自己自身を認識された真理にいつでもその第1の犠牲者として捧げ、どういう苦悩が自己の誠実から湧き出て来ざるを得ないか」を疑視し、それに従うことに生の本来の意味を確認するような人間。これが、ショーペンハウアー的人間像に他ならない。 人間の矛盾を赤裸々に述べ立てることは、人々には悪意の発露と思われるかもしれない。しかし、ショーペンハウアー的人間の「否定や破壊」、そして、そこからくる、「苦悩」を自らひき受け入れる態度こそが、思想を単なる観想や調和の手段に落ち着かせず、真に具体的で活動的なものにするのである。 こうして、ニーチェにとって、「現代文化」は、ショーペンハウアー的人間の登場によって初めて新しい展望を見いだし得るものと見なされるのだが、この「3つの人間像」のイメージによってニーチェが説こうとしたものは根本的にどういうことだったろうか。 まず、ルソー的人間は、いわば、青年期的な過激で純粋なロマン主義を象徴する。そして、ゲーテ的人間とは、この過激なロマン主義が「現実社会」と調停される道筋を意味している。ところが、これは若いときに跳ね上がった人間が、年を食ってすっかり落ち着くという「世俗的」なプロセスに過ぎないことがしばしばある。そこで、ニーチェにとってショーペンハウアー的人間は、重要な意味を持つことになる。つまりそれは、単なるロマン主義への復帰ではなく、ゲーテ的なロマン主義の鎮静も必然とみて、なお、「その先」に考えられる人間の「ロマン性」の可能性として現れた、と言うことができる。
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