放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へとは? わかりやすく解説

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放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)

森光子」の記事における「放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へ」の解説

ラジオへの出演と共に黎明期テレビ在阪局NHK大阪大阪テレビ放送)製作のドラマにも出演するうになる。ABC専属は、系列大阪テレビ放送(のち、朝日放送合併)において1956年昭和31年)、在阪局制作コメディー番組としては初の全国ネットとなった中田ダイマル・ラケット主演コメディダイラケのびっくり捕物帖』(放送期間中の会社合併従い大阪テレビ朝日放送)で藤田まこと演じ与力来島仙之助の“めっぽう腕の立つ妹”・妙を演じ関東にもその顔と名を知られるようになった。なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど色黒だったが、尋常性白斑ため年齢を重ねるにつれ白くなっていった1958年昭和33年)、梅田コマ劇場ダイマル・ラケット共演した舞台あまから人生』で、防空壕から洗濯物持って出るシーン台本台詞無く「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、アドリブでこの当時ヒット曲船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を1フレーズずつ繋げたものを歌ったところ客うけがよく、この時、偶然に空港へハイヤー待っている間に劇場入って演技見ていた東宝菊田一夫に「芸術座芝居やらないか」と上京誘われる大阪絶大な人気誇り実力認められであったが、かねてから東京からスターとの共演では香盤4番程度になることに不満を持っていた(脇役専門女優として甘んじていたこの頃エピソードとして、三木のり平共演したある舞台楽屋でのこと、「名前を書かずに、自分胸の内川柳にして詠みあおう」と仲間内遊んでいた際、「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」と詠んだ話がつとに有名である)。そこで、東宝専属契約を結び上京決意[出典無効]し、この年芸術座公演花のれん』(原作山崎豊子脚色菊田一夫主演三益愛子)で東京進出果たしその後も『がめつい奴』などに出演する当時ABCとの契約残っていたため、『びっくり捕物帖』の出演分は、VTR撮りだめして対応した1959年昭和34年)、大阪から東京拠点移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後ラジオ東京移籍したプロデューサー演出家岡本愛彦結婚岡本5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバ読んで36歳ということにしていた。 1961年昭和36年)、前年舞台がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け、菊田はこれを発展させる形で『放浪記』の脚本執筆主役芙美子役に抜擢される。この年芸術座10月公演初演にして8か月ロングランとなり、芸術祭文部大臣賞テアトロン賞東京演劇記者会賞)を受賞以後生涯通算2017回を数え主演代表作となると共に、それまで脇役だった主演女優への階段上るきっかけとなった。また劇中扮する芙美子自分小説新聞広告を見つけ、喜びのあまりでんぐり返りをする場面は、名物と言われるまでになったまた、は、林芙美子役について「舞台で死んでもこの役を渡したくない」と、並々ならぬ思い入れ語っていた。 1963年昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演務めあげたことで、仕事のめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「いつでもぎりぎり決着逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました俳優という退職金失業保険もない職業みじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」と、当時インタビュー答えている。そんな妻に対して、夫・岡本は「君は仕事殺される仕事半分減らせ」、「夫の忠告がなぜ聞けないのか!」と、を思うが故、反発するが、その亀裂はもはや修復不可となっていた。結局仕事選びこの年2人離婚。この結論至った事については「私は、妻の座についていたかった今でも岡本愛してます。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないください』と泣いて頼んだこともありましたでも、結局破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しないこれから役者ひと筋に生きていくということ」と語っている。結局はこの時の決意全うし、この離婚以後生涯独身貫いた。ただ、一方でその後作家水上勉五味康祐との恋愛関係や、作曲家渡辺岳夫との長期にわたる不倫関係取り沙汰されたこともある。 1965年昭和40年)、当時人気テレビ時代劇で、偶然、家で見ていたNET(現・テレビ朝日)系『新選組血風録』(制作東映京都テレビプロダクション)に興味示し、いきなり東映京都撮影所電話入れ、自ら出演打診最終回1966年1月2日放送分、第26話燃え生命」)に、急遽設定され架空の人物山南敬助(演:早川研吉)の恋人・光役として特別出演している。 同年乳腺腫瘍摘出手術1967年昭和42年)には急性肝炎のため1か月入院余儀なくされ、この時期は健康上の不安に見舞われている。 1966年昭和41年)、東宝マネージャー務めていた吉田保美独立し吉田保美事務所」を設立東宝から同事務所に移籍(ただし、これ以降提携関係継続)。 『東芝日曜劇場天国の父ちゃんこんにちは』(TBS1966年 - 1974年)、『時間ですよ』(TBS1970年 - 1973年以後シリーズ化)、『土曜グランド劇場おふくろの味』(日本テレビ1970年)、『銀座わが町』(NHK1973)、『かくれんぼ』(日本テレビ1981年)等数多くテレビドラマにも出演京塚昌子山岡久乃とともに日本代表するお母さん女優」としてその人気を不動のものとし、「日本のお母さん」の異名取っている。特に、時間ですよシリーズでは下町銭湯おかみさん役が当たり役として話題になった確立したイメージCMでも活かされ、特に1968年昭和43年)から起用された「タケヤ味噌」のCMでは、途中空白期間はあるものの2008年平成20年)まで約40年にわたりCMキャラクター務めている。 1974年昭和49年)から1988年昭和63年)までの14年間にわたり、フジテレビワイドショー番組3時のあなた』で月曜日・火曜日メイン司会担当しこの間石原裕次郎追悼特集1987年7月20日放送)や田中角栄との対談1984年9月3日放送)[出典無効]などの大役をこなし、女性司会者としての地位確立、同番組での歴代最長司会者でもある。また、この番組ではを姉と慕っていた美空ひばり第1回最終回ゲスト出演した[出典無効]。司会者として実力『NHK紅白歌合戦』紅組司会者として発揮されており、第13回1962年昭和37年)〉、第29回1978年昭和53年)〉、第35回1984年昭和59年)〉の3回起用されている。また『輝く!日本レコード大賞でも、1972年昭和47年)から1976年昭和51年)まで司会務めている。 紅白では、実際紅組司会務めた3回以外でも起用有力だった回がある(辞退した回もある)ほか、出場歌手候補にも挙がったこともあるとされるまた、第35回での64歳での紅組司会第66回2015年平成27年)〉でとも親交のあった黒柳徹子第66回時点82歳。同回の総合司会)に抜かれるまで紅白司会者最年長記録となっていた(紅組司会としては最年長記録保持している)。 1975年昭和50年11月12日から翌年5月12日までTBS系放送された『花吹雪はしご一家』で母子役として共演した西城秀樹からは「東京お母さん」と呼ばれ公私にわたり親交深めたプライベート年上の有名女優交際していた西城恋愛についてアドバイスしたり、コンサートにも数多くゲスト出演している。 1977年昭和52年)、「吉田保美事務所」から独立し個人事務所「オフィス・モリ」を開設する 大阪での喜劇女優としての経験生かしてザ・ドリフターズとの『ドリフと女優の爆笑劇場』(1977年1989年テレビ朝日系)や加藤茶志村けんとの『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』(1987年1994年フジテレビ系)といったスペシャル枠コント番組にも長年出演するなど、その芸域広さ柔軟性見せている。 好奇心旺盛にして有り余るほどの行動力発揮し興味持った歌手アーティスト公演には足繁く通い、その姿勢は自らも「若さの秘訣のひとつ」と語っていた。中でもジャニーズ事務所所属タレントらや、クレイジーケンバンドとの交流有名だったジャニーズ所属タレントの中では少年隊東山紀之歌と踊り高く評価公私にわたり親交深め右手握れ男性東山だけ」ともいわれ、実際に交際の噂を立てられる程で舞台では5作品(6公演)、テレビドラマでも共演作がある。また、2011年11月5日東山前年10月結婚した木村佳乃との間に、第1子となる女児誕生した際には祝福コメント寄せている。80歳にして「絶叫コースター挑戦したい」と希望しテレビ番組の企画でTOKIO長瀬智也実際にコースター乗ったこともある。 ジャニーズ事務所創立者であるジャニー喜多川との親交古く喜多川父親大阪道頓堀劇場舞台をよく見に行って森光子踊りがうまい」と褒めていたことを覚えており、のちにジャニーズ事務所開設とともに交流深めることとなった黒柳徹子とも50年来の親友だったという。 大橋巨泉(以下、巨泉記述司会人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。特に『クイズダービー』では、の「ドッキリ発言」のエピソード知られている(第684回、1989年4月8日放送分)。出場者側(ギャンブラー席赤チーム)として登場の際、CM明けの6問目に初代2枠レギュラー解答者五月みどりの曲『恋するちょ』の歌詞当て問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人は全員正解)と巨泉発表した直後のことである。出場者のは突然「私は、もしかしたらあの…『ホテルにとまれ』かと思った」と真顔コメント。この発言に全解答者のみならず出場者側で出演したタレント達も大爆笑巨泉流石に「それは過激すぎますよ!」と苦笑する始末だった。また、世界まるごとHOWマッチにおいては自身が「レギュラー解答者なりたい」という程でもあり、当番組の最終回スペシャルにも出演していた。その後巨泉番組スーパーバイザー兼任したTBS大型バラエティ番組ギミア・ぶれいく』のレギュラー陣1人として起用されている。

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