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げいじゅつ-ざ 【芸術座】
(2)モスクワ芸術座のこと。
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芸術座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/05 14:48 UTC 版)
| 芸術座 Geijutsuza |
|
|---|---|
| 情報 | |
| 開館 | 1957年4月25日 |
| 開館公演 | 暖簾 |
| 閉館 | 2005年3月27日 |
| 最終公演 | 放浪記 |
| 客席数 | 約750 |
| 用途 | 演劇 |
| 運営 | 東宝株式会社 |
| 所在地 | 〒100-8415 東京都千代田区有楽町一丁目2番1号 東宝会館(東宝本社ビル)内 |
| アクセス | 東京メトロ日比谷駅より徒歩2~3分 東京メトロ銀座駅より徒歩5分 JR有楽町駅日比谷口より徒歩7分 |
芸術座(げいじゅつざ)は東京都千代田区有楽町にあった東宝直営の演劇専用劇場。東宝本社ビル内4階(1階は日比谷映画、地下1階はみゆき座)にあった。客席数は約750と中規模であり、客席と舞台が近いのが特長だった。
歴史
- 1957年(昭和32年)4月25日 - 開館。こけら落としの演目は森繁久弥主演の「暖簾」。
- 1958年(昭和33年)11月 - 森光子が「花のれん」で芸術座初出演。
- 1959年(昭和34年)10月5日 - 「がめつい奴」初公演。翌年(1960年)7月17日まで9ヵ月に及ぶ本邦初のロングラン興行となる。
- 1961年(昭和36年)5月18日 - 同館で公開収録のコメディ番組「笑えば天国」がフジテレビで放送開始(~1966年7月28日)。
- 1961年10月20日 - 森光子主演の「放浪記」初公演。
- 1970年(昭和45年)1-2月、5-6月 - 「雪国」公演。若尾文子、内藤洋子主演。
- 1973年(昭和48年)4月4日 - 芸術座の生みの親であった菊田一夫が死去(享年66)。
- 1980年(昭和55年) - 東宝演芸場の閉鎖に伴い、東宝名人会の興行を引き継ぐ。
- 1990年(平成2年)9月23日 - 「放浪記」が通算上演回数1,000回を突破。
- 2004年(平成16年)6月 - 老朽化した東宝本社ビル建替えのため、解体を発表する。
- 2005年(平成17年)2月10日 - 東宝名人会最終公演「さよなら芸術座お名残番組」開催。
- 2005年3月4日~3月27日 - 森光子主演の「放浪記」を最終公演として閉館。最終日はカーテンコールで「祝・大千穐楽 あたたかいご声援をありがとうございました」と書かれたパネルが舞台上に掲げられ、48年の歴史に幕を閉じた。
- 2007年(平成19年)11月7日 - 同館跡地に新劇場『シアタークリエ』がオープンした。
外部リンク
- さらば日比谷映画、みゆき座 東宝本社ビル再開発へ - YOMIURI ON LINE「ジブリをいっぱい」(2004年7月6日)
芸術座 (劇団)
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(芸術座 から転送)
芸術座(げいじゅつざ、旧字体:藝術座)はかつて日本に存在した劇団。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があった。
目次 |
概要
第一次芸術座
1913年(大正2年)、松井須磨子とのスキャンダルが露見したことにより坪内逍遥の文芸協会を脱退することになった島村抱月が、松井、相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。
1914年(大正3年)、第3回目の公演としてトルストイの『復活』を上演。劇中で歌を歌わせるという日本初の試みが話題になったこともあり、通算で444回の公演を重ねるほど評判になった。また、松井の歌う劇中歌「カチューシャの唄」のレコードは、蓄音機の普及が進んでおらず数千枚売れればヒットという時代にあって、2万枚の売り上げを記録した。このヒットによって、活動拠点となる「芸術倶楽部」を東京市牛込区(現・東京都新宿区)に建築。
翌1915年(大正4年)にはツルゲーネフの『その前夜』を、1917年(大正6年)にはトルストイの『生ける屍』を上演。これらも劇中歌の『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』がヒットするほどの評判となった。
しかしこの間、劇団内部では松井と他の団員との確執が深刻化。水谷竹紫は第1回公演の後に脱退、沢田正二郎らも1917年に脱退して新国劇を旗揚げし、以後も団員の離脱が相次いだ。
1918年(大正7年)11月、島村がスペイン風邪で急死、2ヵ月後には松井が島村の後を追って自殺。芸術座は解散した。
第二次芸術座
1924年(大正13年)、水谷竹紫は、演劇界の発展と、義妹である女優・水谷八重子の育成を目的として劇団結成を考えた。これを聞いた島村の遺族から「芸術座」の名称の使用を薦められたこともあって、芸術座が事実上再興されることになった(第二次芸術座)。この時の主な協力者は、汐見洋、田村秋子、友田恭助、青山杉作など。
劇評家からの評価は高かったものの、竹紫が衣装や小道具にこだわったことから商業的には赤字という公演が続いた。そのため、松竹との提携や満州公演、新派一座との共同公演などを積極的に行った。
1935年(昭和10年)、竹紫が死去。その後は八重子が中心人物となって活動を続けたが、1945年(昭和20年)になって本土空襲が日常茶飯事のような状況となると、もう公演を続けていくことができなくなり解散した。
関連項目
参考文献
- 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年。ISBN 9784257033592
- 水谷八重子『水谷八重子 女優一代』 日本図書センター 1997年。ISBN 9784820542537
固有名詞の分類
「芸術座」の用例一覧
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