シャルリー・エブド襲撃事件
シャルリー・エブド襲撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:35 UTC 版)
「ジネブ・エル・ラズウィ」の記事における「シャルリー・エブド襲撃事件」の解説
2015年1月7日、『シャルリー・エブド』編集部にイスラム過激派テロリストが乱入し、風刺画家のシャルブ、カビュ、ジョルジュ・ウォランスキ、ティニウス、フィリップ・オノレのほか、ジャーナリスト、警察官を含む12人が殺害された。ラズウィが休暇でモロッコに戻っているときのことであった。急遽フランスに戻り、1月11日にシャルリー・エブド襲撃事件および翌々日に発生したユダヤ食品店人質事件の犠牲者を追悼すると同時に、テロリズムを糾弾し、表現の自由を訴える全国規模の大行進「共和国の行進」が行われた際には、同じように辛うじて難を逃れた風刺画家のリュズ、カトリーヌ・ムリス(フランス語版)、医療コラム担当のパトリック・プルーらとともに最前列に立って行進した。 2月にラズウィとモロッコに住む夫で作家のジャウアド・エル・ベナイシに対する殺害の呼びかけがソーシャル・ネットワーク上で拡散した。「ファトワーは必要ない、ただ殺せ」という呼びかけで、朱色の服を着せられ、斬首刑に処せられようとしているラズウィとベナイシの偽造写真が掲載された。これを受けてさらにベナイシの住所や勤務先の情報もGoogle マップなどを使って公開された。国際ジャーナリスト連盟、フランス・ジャーナリスト全国労働組合 (SNJ)、モロッコ報道機関全国労働組合がこれに抗議し、ラズウィおよびベナイシとの団結を表明。ラズウィはすでにフランスで警察の保護下に置かれていたが、モロッコに住むベナイシにも同様の措置を講じるよう要求した。 『シャルリー・エブド』が2月25日にようやく活動を再開した後、新たに編集長に就任したリス (ローラン・スーリソー) を中心とする編集部との間に対立が生じた。職務を全うしないという理由により解雇通知を受け取った彼女は、再建後のシャルリーは官僚主義的になったと批判した。編集部との話し合いにより解雇は撤回されたが、リュズ、パトリック・プルーに次いでラズウィも9月に「事態はまだそれほど明らかではないが、一緒に仕事をしたいと思っていた仲間を失った今、私も過去と決別して新たな人生を歩みたい」、「『シャルリー・エブド』にはこれからも誇りをもって堂々とフランス報道界の風刺の伝統を担い続けてほしい」として辞意を表明した。また、すでにこれ以前に「シャルブがいないのに一生懸命働くなんて耐え難い」、「一行も書かず、一度も判断を下したことのないムスタファ(ムスタファ・ウラド(フランス語版))が殺されて、私が生きていることに罪悪感を募らせている」と語っていた。
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シャルリー・エブド襲撃事件
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「リュズ」の記事における「シャルリー・エブド襲撃事件」の解説
2015年1月7日、『シャルリー・エブド』の風刺画家らがイスラム過激派に殺害される事件(シャルリー・エブド襲撃事件)が起こった。 詳細は「シャルリー・エブド」、「シャルリー・エブド襲撃事件」、および「Je suis Charlie」を参照 この日は編集会議が行われていたが、偶然にも誕生日だったリュズは妻のカミーユ・エマニュエル(フランス語版)(ジャーナリスト) が誕生日を祝ってくれたために遅刻して難を免れた。1月11日にシャルリー・エブド襲撃事件および翌々日に発生したユダヤ食品店人質事件の犠牲者を追悼すると同時に、テロリズムを糾弾し、表現の自由を訴える全国規模の大行進「共和国の行進」が行われた際には、最前列に立って行進したが、一方でこうした政府主導のデモにより『シャルリー・エブド』が「象徴としての責任」を負わされ、政治的に利用される危険性があることを指摘した。 事件の1週間後の1月14日には所謂「生存者の号」(シャルリー・エブド第1178号(フランス語版)) が発行された。「すべて赦される」という見出しのもと、「Je suis Charlie」と書かれた紙を持って涙を流すムハンマドの表紙画を描いたのはリュズだった。 この前日、事件後に『シャルリー・エブド』が一時的に編集部を置いていたリベラシオン社でジェラール・ビアール、パトリック・プルーとともに記者会見に臨んだ。「共和国の行進」に各国首脳が多数参加したことについては、言論を弾圧する国からも参加があったことを皮肉り、「ブロガーを牢屋に入れて鞭打ちの刑に処するような国はシャルリーではない」と、イスラム教を侮辱したとしてブロガーのライフ・バダウィを逮捕し、鞭打ち1,000回の刑を言い渡したサウジアラビアを批判した。また、『シャルリー・エブド』に対する批判については、「ユーモアは誰も殺さない。すべての人間の感情を考慮しなければならないとしたら、もはや鉛筆を捨てるしかない」と語った。 ナイジェリア、パキスタン、トルコ、アルジェリア、チュニジア、イランなどのイスラム諸国ではこのムハンマドの画に対する激しい抗議デモが起こった。リュズは、「たいていのイスラム教徒はシャルリー・エブドのことなど気にもかけていないと思う。だから、イスラム教社会全体が(あの画で)侮辱されたと言う人々(そんなふうに言う権利があると勝手に思い込んでいる人々)こそ、イスラム教徒をバカ扱いしているのだ。われわれはイスラム教徒をバカ扱いしない」と抗議している。 2015年4月、リュズは、「もうムハンマドは描かない」と発表し、「ムハンマドにはもう興味がない」と説明した。 2015年5月、「個人的な理由により、9月にシャルリー・エブドを去る」と発表し、「もうシャルリーではなくなるが、これからもずっとシャルリーだ」と語った。 同じく2015年5月に事件当日の様子やその後の苦しみ、そしてわずかなりとも希望を見出すまでの経緯を画で綴った『Catharsis (カタルシス)』を発表。『フィガロ』紙は、この本は「悪夢、重度の不眠やパラノイア、神経症の苦しみ、解放の糸口となった妻との愛の営み、そして何よりも画を描き続けることができるかどうかという不安」を語っているとし、『レクスプレス(フランス語版)』紙は、「非常に個人的な闘い・・・自分を見失うまいとして闘い、勝利を収めた一生存者の物語」と評した。この本は増刷を重ね、早くも発売後1か月間に第3刷で9万部印刷されることになった。 2018年11月、漫画家・風刺画家として身を立てるためにパリに上京した当時のこと、リュズの才能を最初に見出したカビュとの出会い、親しかったシャルブほか『シャルリー・ヘブト』の他の風刺画家らとの思い出などを画で綴り、「なぜ描き続けるのか」と自らに問う画集『Indélébiles (消えないもの)』を発表。「消えないもの」とは指に残るインクのしみであり、同時にまた『シャルリー・ヘブト』そして亡くなった風刺画家らの思い出である。
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シャルリー・エブド襲撃事件
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「シャルリー・エブド」の記事における「シャルリー・エブド襲撃事件」の解説
詳細は「シャルリー・エブド襲撃事件」および「Je suis Charlie」を参照 2014年12月31日号(事件の前の週の号)の表紙には近未来小説『服従』の作者であるミシェル・ウエルベックの風刺画が掲載された。この号にはまた、「フランスではいまだに襲撃が全くない」という見出しで、ジハーディスト戦士が自動小銃AK-47を肩にかけて立ち「慌てるな!新年のあいさつだったら1月末まで間に合うぞ」と言っているシャルブの風刺画も掲載されていた。 2015年1月7日、パリ11区ニコラ・アペール通り10番地の『シャルリー・エブド』では編集会議が行われていた。 編集会議の話題の中心は、『シャルリー』最新号の表紙を飾っている人気作家ミシェル・ウエルベックの小説『服従』だった。2022年大統領選で、極右との決選投票を制してイスラム政党の候補が当選する。フランスはイスラム化され、一夫多妻制が認められ、女性の労働が禁止され、大学の教師はイスラム教徒でなければならなくなる。主人公の文学教授は次第にその環境に慣れていく――。文学、人種主義、エリック・ゼムール(人種主義的・誹謗中傷的な発言が多く、2011年には人種差別の扇動、2018年にはイスラム教徒に対する憎悪の扇動で有罪判決を受けているジャーナリスト)、ドイツにおける反イスラムデモなどとの関連で論じられた。ウエルベックを評価する者もいれば、(イスラム教に対する恐怖心を煽り、逆に極右)「ファシズムの台頭」を許すことになると懸念する者もあった。 この編集会議中に自動小銃を持った男らが乱入、編集長・風刺画家・コラムニストのシャルブ、風刺画家のジョルジュ・ウォランスキ、カビュ、フィリップ・オノレおよびティニウス、経済学者・コラムニストのベルナール・マリス、精神分析医・コラムニストのエルザ・カヤット、校正担当者のムスタファ・ウラド、警察官のフランク・ブリンソラロおよびアフメド・ムラベ、ビルメンテナンス員のフレデリック・ボワソー、ジャーナリスト・旅行記作家のミシェル・ルノーの計12人が死亡し、約20人が負傷した。この事件に続いてモンルージュ警官襲撃事件、ユダヤ食品スーパー襲撃事件が起こり、多発的なテロ事件に発展したが、特殊部隊により計3名の犯人が射殺された。 犯人はアルジェリア系フランス人のサイード・クアシ(Saïd Kouachi, 34)とシェリフ・クアシ(Chérif Kouachi, 32)の兄弟。シェリフは度々有罪判決を受け、刑務所に出入りするうちにイスラム過激派テロリストと知り合い、翌々日パリ20区のポルト・ド・ヴァンセンヌで発生したユダヤ食品スーパー襲撃事件の犯人アメディ・クリバリ(フランス語版)ともフルリ=メロジス刑務所で出会っている。サイード・クアシは2011年にイエメンでアラビア半島のアルカイダ (AQPA) と関係のあるイスラム原理主義者らと軍事訓練を受けている。後にアラビア半島のアルカイダが「預言者ムハンマドを侮辱したことへの復讐だ」として犯行声明を出した。 フランス国内では犠牲者を追悼して1月8日正午、一斉に黙禱を行い、ノートルダム大聖堂も哀悼の鐘を鳴らした。パリ市内には多くの半旗が掲げられた。 長年にわたって『シャルリー・エブド』の医療コラムを担当し、事件当日、真っ先に駆けつけて救命に当たった救急医のパトリック・プルーは翌8日にBFM TVに出演し、「(電話を受けて)3分後に現場に到着して救命に当たったが、頭を撃たれていて、もうどうしようもなかった。(シャルブが倒れていた位置から、彼が)椅子から立ち上がろうとしたときに撃たれたのだと思われる。立ち上がってばかにして、侮蔑して、武器を奪い取ろうとしたに違いない。彼とは長いつきあいでよく知っている……彼だったら、そうしたに違いない。仲間を助けることができなかった」と泣き崩れ、「(犯人らは)シャルリー・エブドだけでなく民主主義を破壊しようとしたのだ……新聞を続けなければならない。やつらを勝たせるわけにはいかないのだから」と語った。 1月11日、フランス各地で「Je suis Charlie(私はシャルリー)」というスローガンのもと、テロリズムを非難し、表現の自由を訴える大行進「共和国の行進(marche républicaine)」が行われ、その数は全国合計で少なくとも370万人に達したとの推計を同国内務省が発表した。このうちパリの行進に加わったのは160万人超とみられ、英国のデーヴィッド・キャメロン首相やドイツのアンゲラ・メルケル首相ら欧州主要国を中心とする40人超の各国首脳も参加したほか、トルコのアフメト・ダウトオール首相、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相、マフムード・アッバース パレスチナ自治政府大統領、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相らも参加した。日本からは鈴木庸一駐仏大使が政府を代表して参加した。ブリュッセルやロンドンなど周辺国の都市でも追悼行進やデモが行われた。 事件後フランスで行われた世論調査では、この週刊新聞の姿勢を支持するという回答が57%、支持しないという回答が42%であった。また、表現の自由には一定の制限が課されるべきと考えるものも、インターネット上では半数ほど存在した。歴史学者のエマニュエル・トッドは自著『シャルリとは誰か(Qui est Charlie ?)』の中で、この週刊新聞および襲撃事件後のデモに参加した大衆の行動は、表現の自由を建前とした偽善的で排外主義的な差別行為だと批判している。ただし、この著書は、統計の取り方の問題もあり、フランスでは批判が多い。
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