駿河侵攻 駿河侵攻の概要

駿河侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 14:07 UTC 版)

駿河侵攻前の情勢

侵攻開始年以前

武田信玄
「内房口の戦い」の首塚(静岡県富士宮市内房)[1]

天文23年(1554年)に駿河今川氏・甲斐武田氏・相模北条氏との間で駿甲相三国同盟が締結された。今川義元武田信玄北条氏康の三大名の政略結婚を基盤とした軍事同盟であった。

その後今川氏は三河地方において尾張織田氏と対立[2]、永禄3年(1560年5月19日桶狭間の戦いで義元が敗死すると今川領国は動揺する[注釈 1]。翌4年(1561年)4月にはこれまで今川方として織田方と対立していた[4]松平元康[注釈 2]が離反した[注釈 3]。それ以後今川・松平間で交戦を繰り返し、翌5年(1562年)1月に室町幕府将軍足利義輝が停戦命令を出すも、収まらなかった[8]

永禄6年(1563年)には遠江国で「遠州忩劇」と呼ばれる国衆の反乱が発生するなど、今川領国は弱体化していった。同年閏12月6日の「武田信玄書状」[原 2]に同盟を結んでいた今川氏に対する背信行為と取れる文面が確認され、遠州忩劇時に駿河侵攻を選択肢に入れていたとする見解もある[9][10][11]

一方武田氏は永禄8年(1565年)9月に信玄四男武田勝頼の正室に織田信長の姪を迎え入れ甲尾同盟を結ぶなど[原 3][12]、対外方針に変化が生じており、義信は織田との同盟に反対していたとされる[13][注釈 4]直後の10月には、義元の娘嶺松院を正室に迎えていた嫡男義信が信玄暗殺を企てた義信事件が発生している[15]永禄10年(1567年)6月、今川氏真は甲斐への塩止めを敢行した。同年10月に、義信が病死[16][17][18]。同年11月に氏真は嶺松院を駿河に帰国させるよう要請したが[19]、同盟破棄に繋がる事態になるとして信玄は難色を示している[20]。その後、11月に嶺松院駿府へ帰国するなど[21]、緊張は極度に高まっていた[22]。同年12月に今川氏と上杉氏間で同盟交渉が秘密裏に開始となった[23]

侵攻開始年(永禄11年)の情勢

永禄11年(1568年)氏真は謙信に対して幾度かの交渉の過程で、氏真は北条や武田との協議事項と機密事項を上杉方に漏らしており重大な同盟違反をしている[20]。駿河侵攻直前[注釈 5]の同年11月3日の武田家文書に「甲・駿両国之通路不自由之間」とあり[原 4]、既に甲斐・駿河間の交通に変化が出始めていたことが指摘される[注釈 6]

これら動向の中で、駿河侵攻直前に武田・徳川間の同盟が成立している[12][26][20]。しかし『甲陽軍鑑』『三河物語』等に記されるような国分協定[注釈 7]自体は、存在したとする見方[27]としなかったとする見方[28]とで分かれている。

武田氏は侵攻前に駿河勢に対して調略を進めている。例えば駿甲国境の勢力である富士郡の佐野氏は[注釈 8]、侵攻後に武田方に帰属するという穴山信君の要求を呑んでいる[原 5][15][29][30]。こうして武田氏は駿河侵攻を開始、先ず駿河国富士郡の要衝で富士氏が守る大宮城(富士城)から攻撃は開始された[31]

侵攻開始から甲斐一時撤退(第一次)

今川氏真
早川殿

永禄11年(1568年12月6日、信玄は駿河侵攻を開始した。武田軍による攻撃は、同9日に駿河国富士郡大宮城から開始された[32][33]。武田軍別働隊が大宮城を攻撃、大宮城主の今川家臣富士信忠は防衛に成功する[34]。その後武田軍は進路を西に向け交通の要衝である内房[35][36]を経て駿府方面へと向かった。この「内房口の戦い」にて今川家臣荻清誉が討死している[37]

この動向を見た氏真は薩埵山で迎撃の構えを見せたが、家臣の離反が重なったため、あえなく退却する。離反した家臣は重臣とも言える面々であり、瀬名信輝朝比奈信置葛山氏元らは既に武田氏と内通していたのである[38][原 6][原 7]。このため今川軍は戦わずして敗れ、12月13日に武田軍は駿府に入った。氏真は駿府を追われ、遠江懸川城朝比奈泰朝を頼って敗走した[注釈 9]

この事態を伝える氏康書状には「愚老息女不求得乗物躰、此恥辱難雪候」とあり[原 8]、氏康の娘で氏真の正室早川殿は輿も用意できずに徒歩で逃げざるを得ない危機的状況であった。また氏康は、娘が徒歩で逃げるという屈辱的な状況となったことに対し激怒している。

信玄は駿河侵攻の理由を「今川氏と上杉氏が武田を挟撃しようと画策していたため」と北条氏に説明していた[40][原 9]。しかし氏真は氏康にとって娘婿という間柄である上、早川殿に降り掛かった災いもあり、氏康は武田氏との同盟破棄を決意する[41][注釈 10]

また氏真の援軍要請を受けて北条氏当主である北条氏政自身が駿河に援軍に向かっており、12月12日 には伊豆三島に陣を張っている。この翌12月13日に氏真は懸川城へと敗走しているが、氏真敗走の同日北条氏は薩埵山[注釈 11]に先鋒隊を送っており、北条氏信が薩埵山近郊の蒲原城に城主として入城している。結果、興津川以東を早期に北条方が押さえる格好となった[33][44]

武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。井伊谷三人衆もその例であり、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を同12日に家康は与えている[28][原 10]。こうして同13日に家康は三河から遠江に侵攻を開始する。この侵入ルートは諸説あるが、陣座峠が目される[45]

徳川方は遠江に入ると交渉・調略で二俣城引間城を手にする。この引間城接収の際、お田鶴の方[注釈 12]が身を挺して抵抗したとされ、この伝承は後世にも語り継がれている。

その後12月21日には高天神城の小笠原氏を味方に付け、久野城久野宗能も味方につけた[46]

懸川城には遠江系の朝比奈氏がおり[注釈 13]、また氏真の懸川城入城に伴い遠江衆らが対徳川戦力として合流している[39]。同月中には北条氏からの援軍も懸川城に到着しており[48][原 11][原 12]、これらが懸川城の戦力であった。また遠江でも今川方の城が健在であり、堀江城では大沢基胤や中安種豊が[原 13][原 14][原 15]、遠江宇津山城では大原資良が、堀川城では堀川一揆勢が籠城し対徳川勢力として踏み留まっていた[49]

これに対し徳川勢は懸川城周辺に多くの付城を普請する[注釈 14]。同年12月27日辺りから徳川軍と今川軍の戦闘が本格化し、同28日には今川軍が徳川方の西郷之構(付城)に攻め込み損害を与えている[原 16]。翌永禄12年(1569年)正月21日には懸川城外の天王小路や天王山砦で戦闘となり、天王小路では徳川方を敗走させることに成功する[33][原 17]。同28日にも天王社路で戦闘となり、徳川方の菅沼美濃守が討死するなど、激戦の模様であった。結果、家康は懸川城を包囲するに至る。しかし武田方の秋山虎繁が遠江に侵入するなどしたため、武田と徳川間で齟齬が生じている。

永禄12年(1569年)正月26日には北条氏政率いる本隊と武田軍が薩埵山にて対陣する[原 18][原 19]。北条氏当主と武田氏当主が対陣するという、特に緊迫した状態となった[50]。また武田方が北条方に釘付けになっている隙に乗じて今川方の土豪が一揆を起こしている。安倍一揆らが北条氏に宛てた書状には「府内二ハ甲州之人数無之候」とあり、同27日には駿府(府内)を今川方が奪還している[原 20]

同年2月1日、信玄は河内領主穴山信君に命じて葛山氏元と共に再び大宮城を攻めさせたが、富士信忠は再度これを防衛することに成功する[51]。同26日に北条氏邦が興津城を攻撃し[52]、同28日には薩埵山・興津一帯で武田軍と北条軍が交戦する。

同年3月にも武田軍と北条軍は交戦を重ねるが、勝敗はつかなかった。また各地で戦闘が発生、同月徳川方は懸川城を攻めるも撃退されており[53]、同8日に家康は今川氏真に対し和睦を提案している[54]。富士上方[注釈 15]の上野筋[注釈 16]では北条方の井出正次正直が戦功をあげるなどしている[原 21][原 22]

富士上方には甲斐と駿河を結ぶ街道である中道往還が通過しており[55]、そこを富士氏や井出氏が堅固していた。また大宮城が位置する富士大宮は駿州往還に近接しており、これら街道を未だ今川方が押さえていたため、武田軍は甲斐への帰路を絶たれていた[56][57]

信玄は3月23日[注釈 17]、在京の家臣に宛てた書状の中で信長との交渉を命じている。内容は武田氏・上杉氏間の和睦の下知を室町幕府将軍足利義昭に出してもらうよう、信長に口添えを依頼するものであった(第一条)。また今川・徳川間の和睦の仲介を信長が行っている意図を確認するよう指示している(第二条)。また第三条に「信玄滅亡無疑候」とあり、信長に見放されたら滅亡は疑いないと信玄は強い危機感を家臣に示している[60][61][62]

同年2月末から3月頃、徳川方の攻撃を凌ぎきれない宇津山城主大原資良は、城に火を放ち脱出した[注釈 18][原 23]。同年3月27日には堀川城が落ち、同年4月には堀江城が開城した。堀江城は最前線でよく守っていたが情勢は難しく、基胤らはこの情勢を氏真に伝え[原 24]、氏真より開城の許しを得た上で徳川方に帰属した[原 25][原 26]。堀江城開城により、徳川氏は遠江をほぼ制圧することに成功した。これは徳川にとって大きな節目となった。

武田氏は下野国下野宇都宮氏常陸国佐竹氏・安房国の里見氏ら関東諸氏に呼びかけて牽制を行ったが[64][65][原 27]、北条氏を撤兵させるには至らなかった。関東諸氏への呼びかけは家康宛の「武田信玄条目」から知られ[原 28]、武田は家康に北条氏と同調しないよう暗に伝えている[注釈 19]。信玄は久能山に久能城を築城、4月19日には久能城横山城[66]の城掟を定め[67][33][原 29][原 30]、対北条氏の押さえの城郭とした。4月28日には横山城に穴山信君を残して興津を撤兵し[68]、甲府に撤退した[69][原 31]

この甲斐撤退は現在も「信玄の樽峠越え」という伝承として残るが、これは大宮城を落とせず中道往還や駿州往還を通過できなかったため、難所を切り拓いて帰国せざるを得なかったためである[70][71]。こうして第一次駿河侵攻は、武田軍が駿府を占有するに至る。一方で富士郡と駿東郡は北条軍が抑える状況であった。


注釈

  1. ^ 桶狭間合戦後、早くも今川家臣らが武田信玄を警戒しており、それが信玄にも伝わっている[原 1][3]
  2. ^ 永禄6年(1563年)に家康と名乗り[5]、永禄9年(1566年)には徳川に改姓[6]
  3. ^ 平山は、織田方と対立する元康の元に氏真が援軍を差し向けることができなかったことが関係性を決定的に悪化させたとしている[7]
  4. ^ 平山優は武田・織田同盟(甲尾同盟)の方針が決定的な契機となり、信玄と義信との関係は険悪化したとする[14]
  5. ^ 永禄12年に比定される上杉景虎を宛所とする織田信長書状が残り、織田・武田同盟に至った経緯が記され、「駿・遠両国間自他契約子細候」とある。平山はこの記録から「永禄11年7月頃には信玄は駿河攻めを決意していた」としている[24]
  6. ^ 斎藤は両国間の紛争を民衆が予測し、境界地域の通行忌避を生んでいた可能性を指摘している[25]
  7. ^ 今川領を分割し大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏が得るとするもの
  8. ^ 佐野氏は富士郡上稲子(静岡県富士宮市)を本拠とする土豪
  9. ^ 平山は同15日に懸川城へ到着した可能性が高いとしている[39]
  10. ^ なお、氏政は武田信玄の娘である黄梅院を正室に(その間に儲けた北条氏直が後に当主となる)していたが、氏政は離縁して妻を武田家へ送り返したと伝えられていた。しかし、近年これは1970年代に初めて登場した話で歴史的な根拠はないとする説が出されており、黄梅院は小田原城に留め置かれてそのまま死去したと考えられている[42]
  11. ^ 文書中で用いられる「薩埵山」とは、狭義の意味として用いられる「薩埵峠北側の山」を指すのではなく、主峰浜石岳から南北に延びる稜線上の広大な陣場を指す[43]
  12. ^ 元・引間城主飯尾連龍の妻
  13. ^ 泰朝を筆頭に、朝比奈親孝・芳線・泰勝・泰寄・泰茂・泰之・泰忠らが居た[47]
  14. ^ 相谷砦・長谷砦・曽我山砦・天王山砦・金丸山砦・青山田砦・笠町砦・杉谷砦等
  15. ^ 現在の静岡県富士宮市一帯
  16. ^ 現在の静岡県富士宮市上野
  17. ^ 丸島は5月の誤読であるとしているが[58]、それに対し平山は5月の誤読ではなく3月23日で正しいだろうとしている[59]
  18. ^ 大原は少なくとも2月27日には在城していることが知られる[63]
  19. ^ 永禄12年4月7日付「武田信玄条目」。外交文書である武田氏の条目において朱印を用いることが通例であるが、当文書では信玄の署名花押が据えられた書判状の形式であり、書札礼上の厚礼である点が指摘される
  20. ^ 元亀元年(1570年)7月には甲越和与は破棄されているため、約1年間の短い和与であった
  21. ^ 志太郡益津郡一帯のことで駿河国中西部にあたる
  22. ^ 4月に元号を元亀に改元
  23. ^ 静岡県富士宮市周辺
  24. ^ 富士川以東の地域
  25. ^ 現在の御殿場市裾野市小山町一帯
  26. ^ 家康の誓詞提出と信玄の血判状提出が判明する2月16日付の古文書(年不詳)があり、これらは家康の抗議に関するものと推測され、結果永禄12年に比定されている[102]
  27. ^ 家康の誓詞提出と信玄の血判状提出が判明する2月16日付の古文書(年不詳)について平山は、永禄12年とする説が正しいだろうとしている[103]
  28. ^ 内容は今川家に対するこれまでの奉公に対する感謝と、この先何処に出仕しても良いという意思を示した感状

原典

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出典

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