赤穂城 歴史

赤穂城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 01:32 UTC 版)

歴史

加里屋城・大鷹城時代

大鷹城[21]は1452~1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城[22][要ページ番号]し、この地で初の築城となる[要出典]。赤穂に生駒親正が伊勢国神戸から1585年天正14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石[23][要文献特定詳細情報]を与えられたが1586年(天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は宇喜多秀家の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから[要出典]、他郡からの間接統治の可能性も示唆される[24][要文献特定詳細情報][25][要ページ番号]。宇喜多氏は1600年(慶長5年)に関ヶ原の合戦により改易・流罪となり、姫路藩主・池田輝政の弟の長政が赤穂領主に任ぜられると、「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城[22]し、これが赤穂城の前身となる。輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となった1613年(慶長18年) 、城に一重の堀・石垣・櫓・門を造営[22]、忠継の弟・政綱は3万5000石を与えられ1615年(元和元年)に赤穂藩が立藩し、御殿を建てる。その政綱嗣子なく1631年(寛永8年)に死去すると、弟の輝興が入封してさらに櫓・馬屋を造った。狂乱し刃傷沙汰の咎で正保2年に改易正保赤穂事件)され(1645年)、水谷勝隆備中松山藩)の一時預かりとなった城は同年、浅野長直を5万3000石で迎える。

赤穂城時代

近世の城郭建設のため、近藤正純が1646年(正保3年)に設計図を作成[要出典]し、石材採掘にも取り掛かる。幕府に築城計画を提出した1648年(慶安元年6月17日、新暦8月5日[9]、同年中に城作りが始まる。赤穂藩主・浅野長直は1652年(承応元年)、山鹿素行を赤穂に招き、7ヵ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計を助言した。[要文献特定詳細情報] ただ、城の北に大手門と道(現在はJR播州赤穂駅に通じる)、南に流水(加里屋川を望む水手門)、西に緑地(庭園)、東に天守台[注釈 3]があり、山鹿流の縄張り [26]とは異なっている。

赤穂城は1661年(寛文元年)に完成し、やがて3代浅野長矩の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与、旗本の寄合に列するのは1694年(元禄7年)である。長矩が勅使饗応役に任ぜられ、1701年(元禄14年)に江戸城中で吉良義央に斬りつけて刃傷事件を起こすと浅野氏は改易となる。城の明け渡しが行なわれるが、これ際して幕府へ赤穂城内の備品・武具の数が報告された。赤穂藩5万石において、長槍50本、火縄銃50丁とその銃弾2000発、弓500張とその矢2000本、足軽用具足100領、門番用具足200領が記録されている。江戸時代の城にどれほどの武具の蓄えがあったのかを知る事ができる数少ない例である[27]。翌元禄15年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。。

浅野氏家臣から赤穂城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。また、城下の町人(主に子供)が水堀で釣りをしたり、百姓たちが二の丸の蔵米を奪おうとしたり、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした(三の丸で清水門が破損したと記される[28])。民部はこれらを取り締まると共に米合計3036俵を城から移転した。龍野に在国中の安照が幕府に城の破損状況を報告している[29]。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。そのほか城には多数のが居た記録が残る[30]

1702年(元禄15年)に永井直敬が3万3000石で入封した。 1706年(宝永3年)に当代の直敬は信濃国飯山藩へ転封となると、森長直備中国西江原藩より2万石で入部。この森家は廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。

幕末に至ると藩政の改革をめぐり、1857年(安政4年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔る(はしる)。

文久2年(1862年)12月9日、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉ら中下級武士13名が、佐幕派の一門・森主税(可彝)を赤穂城で斬殺した。藩儒(朱子学教授)・村上真輔(天谷)も城下の屋敷で殺害される[31]。襲撃者の13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた(文久赤穂事件)[32]

近現代

1930年代の赤穂城

1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となると、廃城令発布(1873年)を受けて飾磨県権県令は1876年(明治9年)に城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却された。

千種川の洪水が1892年(明治25年)に発生すると災害復旧と川のつけかえ(流路変更)のため、二之丸門から清水門までの石垣の石を転用して護岸を築く。城郭の石垣は破壊がいっそう進み、また堀は大手門枡形の南側と北方多門にかけて埋め戻された。

1897年(明治30年)には大石神社の建立が始まった。大町桂月ら右翼や国粋主義者[33]の反対もあり[34]、起工には相当の年月を要し、1912年大正元年)になってようやく社殿が竣工した。

本丸跡は、旧制の県立中学校の敷地にあてて1928年(昭和3年)に開校する。

城の建造物は1935年(昭和10年)に大手門前の堀と太鼓橋を復元したのち、本丸の外堀は第二次世界大戦を挟んで1953年(昭和28年)を待って復元される。続いて大手隅櫓と大手門(高麗門)を1955年(昭和30年)に再建するが、隅櫓の一部は明治期に撮影された形状から変わった。

本丸跡の県立赤穂高校(旧制赤穂中学校)は、城が国の史跡に指定されてから10年後を経た1981年(昭和56年)に御崎へ移転させ、本丸庭園の復元・整備は1990年(平成2年)に完成。また大手門枡形、本丸門および同枡形は1996年(平成8年)に復元された。本丸厩口門は2001年(平成13年)に復元され、2010年(平成22年)に復元された庭園の西仕切門は、高さ約4.6 m、幅約3.0 m。総工費は門につながる土塀約10.5 m分も含めて約3200万円と報道された[35]。二之丸庭園は2016年(平成28年)に部分公開を始めている[36]


  1. ^ 赤穂市内に点在する江戸時代の井戸「汲出桝」(くみだします)は、例えば旧城下町に相当するJR播州赤穂駅前の商業施設「赤穂バザール」の前で見学できる(赤穂市加里屋42-7正面)[19]
  2. ^ 事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた[20]
  3. ^ 浅野宗家の広島城は吉方(北西)に天守がある。
  4. ^ 討たれた村上真輔のみ大正期(明治維新への反動)に五十余年を経て左翼系の運動で名誉回復(贈位)している。
  5. ^ 江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、失われた。
  6. ^ 「こぐち」は狭い道・狭い口の意味。「ここう」と読むと「危険な場所」。
  7. ^ 番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたった。
  8. ^ 番所跡に「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が掲示してある。
  9. ^ 大石良雄宅跡(赤穂大石神社所有)の国史跡指定は1923年(大正12年)3月7日、面積3,796.12m2
  10. ^ 「老朽甚だしく、昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」[51]
  11. ^ 旧赤穂城庭園の国名勝指定は2012年(平成14年)9月20日、面積2万4912.58m2
  12. ^ 近藤源八宅跡(赤穂市所有、長屋門)の市指定文化財指定は1998年(平成10年)4月27日。
  13. ^ 案内板によると「簀子野地天井(すのこのじてんじょう)などを残し、平成13年(2001年)に解体復元」した。赤穂市教育委員会。






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