赤穂城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 01:32 UTC 版)
遺構
土塁、石垣、堀などが残る。又、これから出てくる建物のこれ以上の木造復元計画は予算の関係でない。 。
復元・整備施設
本丸
- 本丸高麗門(こうらいもん) - 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴(狭間)が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
- 本丸櫓門(やぐらもん) - 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定日に一般公開される[47]。
- 天守台 - 天守が築かれた事はないが、#光の天守閣でプロジェクションマッピングが投影される。
- 本丸御殿跡 - 本丸庭園は国の名勝に指定。コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。
- 刎橋門(はねばしもん)跡 - 石垣の一部は破壊された痕を残す。内堀の直前に柵が付けられている。
二の丸
- 二ノ丸土塁
- 厩口門(うまやぐちもん) - 別称は高麗門。1981年(昭和56年)まで県立赤穂高等学校の通用口に使われた[48]。
- 二の丸庭園
- 水手門 - 船着場跡と四脚門の礎石がある。
- 西仕切門
- 文久赤穂事件顕彰碑 - 佐幕・保守派の森主税・朱子学者の村上父子を誅した尊王攘夷13人の顕彰碑。大正デモクラシーで破却され[注釈 4]、現在は「かんかん石」[49]と称する四角い台座の部分二基のみ残る。
- 忠魂碑 - 赤穂出身の日清・日露など戦没兵士を湛える記念碑[50]。
三の丸
- ^ 赤穂市内に点在する江戸時代の井戸「汲出桝」(くみだします)は、例えば旧城下町に相当するJR播州赤穂駅前の商業施設「赤穂バザール」の前で見学できる(赤穂市加里屋42-7正面)[19]。
- ^ 事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた[20]。
- ^ 浅野宗家の広島城は吉方(北西)に天守がある。
- ^ 討たれた村上真輔のみ大正期(明治維新への反動)に五十余年を経て左翼系の運動で名誉回復(贈位)している。
- ^ 江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、失われた。
- ^ 「こぐち」は狭い道・狭い口の意味。「ここう」と読むと「危険な場所」。
- ^ 番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたった。
- ^ 番所跡に「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が掲示してある。
- ^ 大石良雄宅跡(赤穂大石神社所有)の国史跡指定は1923年(大正12年)3月7日、面積3,796.12m2。
- ^ 「老朽甚だしく、昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」[51]。
- ^ 旧赤穂城庭園の国名勝指定は2012年(平成14年)9月20日、面積2万4912.58m2。
- ^ 近藤源八宅跡(赤穂市所有、長屋門)の市指定文化財指定は1998年(平成10年)4月27日。
- ^ 案内板によると「簀子野地天井(すのこのじてんじょう)などを残し、平成13年(2001年)に解体復元」した。赤穂市教育委員会。
固有名詞の分類
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