甲斐国 地域

甲斐国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/05 20:36 UTC 版)

地域

甲府盆地の国中地方

東部の郡内地方

管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。

東国において国郡制の整備は大化の改新の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では甲斐国造が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に加牟那塚古墳を盟主とする盆地北西部勢力と姥塚古墳を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に春日居古墳群を築き寺本廃寺などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では国造に次ぐ有力豪族が立評に携わっていたと考えられている。

国衙所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は渡来人勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を武蔵国相模国と接し、相武国造の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、信濃国と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。

人物

国司

奈良時代

奈良時代の甲斐国司は13名が確認され、『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている[2]

  • 田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)

甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の瑞祥記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという[3]。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。

甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている[4]。甲斐国では古代に三御牧が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は甲斐の黒駒伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている[5]

田辺史氏は馬匹生産に関わる河内国安宿郡資母郷(大阪府柏原市)を本貫地とする渡来系豪族で、広足の甲斐守任官の背景。甲斐国では、広足以降の甲斐国司に馬史比奈麻呂や山口忌寸沙弥麻呂や坂上大忌苅田麻呂らの渡来系氏族出自の甲斐国司がおり、馬史比奈麻呂は田辺史氏と同じく馬匹生産に関わる馬史氏の出自である。

  • 丹比間人乙万呂(天平10年4月か、『正倉院文書』)
  • 馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』以下も同じ)
  • 山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日)
  • 坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日)
  • 豊国真人秋篠(宝亀元年9月16日)
  • 粟田朝臣鷹守(宝亀3年4月20日)
  • 山上朝臣船主(宝亀9年3月10日)
  • 藤原朝臣内麻呂(延暦元年閏正月17日)
  • 紀朝臣豊庭(延暦3年4月30日)
  • 大伴王(延暦8年3月16日)
  • 橘朝臣安麻呂(延暦10年7月4日

平安以降

守護

鎌倉幕府

  • ? - 元徳3年/元弘元年(1331年) : 武田三郎(政義?)

室町幕府

戦国時代

戦国大名

織豊政権の大名

  • 穴山梅雪勝千代 : 河内下山(巨摩郡)、1582年 - 1587年。武田氏の庶流であるが、信長侵攻の際に信長方に加担し、本領を安堵された。1587年、勝千代が16歳で死亡し断絶。徳川家康は五男の松平信吉に穴山氏の名跡を継承させ、武田七郎信義と名乗らせたが、1603年無嗣断絶となった。
  • 河尻秀隆 : 梅雪の河内領を除く甲斐一国と信濃諏訪領22万石、1582年 - 1582年。本能寺の変の後の国人一揆に巻き込まれて死亡。
  • 徳川家康 : 1582年 - 1590年。本能寺の変の後発生した天正壬午の乱に勝利し、甲斐を自領とした。1590年、江戸に移封
  • 豊臣秀勝 : 甲斐・信濃2カ国、1590年 - 1591年(美濃移封)
  • 加藤光泰 : 甲斐一国24万石(甲府城)、1591年 - 1593年(朝鮮出兵中に死亡。嫡子の加藤貞泰は美濃黒野に移封)
  • 浅野長政幸長 : 甲斐一国21万5千石(甲府城)、1593年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、紀州藩37万6千石に移封)

武家官位としての甲斐守

江戸時代

脚注

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注釈

  1. ^ 信武の死後、(信成を飛ばす形で)足利尊氏近習出身の孫の信春が甲斐守護に任じられたとする西川広平の説がある[6]

出典

  1. ^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12
  2. ^ 奈良時代の甲斐国司については、原正人「奈良時代の甲斐国司-その性格と任官の動向をめぐって-」『山梨県史研究』(第三号、1995年3月)、同「奈良時代の甲斐国司」『山梨県史』通史編1原始・古代(2004)
  3. ^ 『続日本紀』該当部は『山梨県史』資料編3原始・古代(文献・文字史料 - 史料31)所載、以下古代甲斐国に関する文献資料は同書に所載。
  4. ^ 原 1995
  5. ^ 原 1995、広足の神馬貢献の政治的意志については原文献のほか、磯貝正義「古代官牧制の研究-甲斐の御牧を中心に-」『郡司及び采女制度の研究』(吉川弘文館、1978)
  6. ^ 西川広平「南北朝期 安芸・甲斐武田家の成立過程について」(初出:中央大学文学部『紀要』史学65(2020年)/所収:西川広平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三二巻 甲斐源氏一族』(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-398-5)P313-314.


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