武士団 武士の職能

武士団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/12 05:17 UTC 版)

武士の職能

騎馬武者

前九年の役から『平家物語』の時代まで、武士の戦闘は騎馬武者の弓射が中心である。もちろん、『今昔物語集』巻第25第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」に、「騎馬の兵70人、徒歩の兵30人」とあるように、歩兵もいるが、歩兵の戦闘描写は見られない。基本的には弓射戦であり、騎馬での組み討ち、落馬後に刀を使う[26]

一騎討ちの例は実はそれほど多くはないとされる[27]が、基本的に、騎馬武者による弓射戦が戦闘の基本形態であり、個人戦がベースである。それが変化してくるのは、鎌倉時代も終わった南北朝時代、『太平記』の時代である。

律令制の軍団

武士論研究には「在地領主論」と「職能論」という2つの流れがあることは述べたが、職能、特にその技能(弓馬)に着目すれば、律令制下の軍制から中世武士までの連続性がかなり明らかになってきている[28]

一般に律令制での軍団は歩兵中心とのイメージが強い。確かに国民皆兵性のような1戸(行政上の単位、平均30人ぐらい)から1名、年間60日の軍事訓練を受けるという段階では歩兵の比率が高そうに思えるが、騎兵部隊も確認され、軍事力の中核はそちらが担っていたようである。

792年延暦11年)の軍団解消以降、軍事を担った「健児」も基本的には弓射騎兵である。軍団解消は、軍団歩兵の解消であって、上兵である騎兵は、人数としては縮小されながらも諸国においては「健児制」として継承されたとも言える。騎馬武者は中世武士の専売特許ではなくて、弓射騎兵が武力の中心という伝統は律令軍団から中世武士までの一貫したスタイルである。

特種技能集団・弓射騎兵

戦闘に堪え得る乗馬と鎧、そして馬を乗りこなしての騎射(弓)の訓練ができる者とは、平安時代後期ではごく一握りの特種技能集団でしかあり得なかったはずである。佐藤進一は『南北朝の動乱』においてこう書いた。

武士にはこういう特技(騎馬と射技)が必要条件となると、馬の供給量が少ない日本では、 高価な馬をもって、日夜特技をみがくだけの経済的余裕が無ければならない。こうして武士は「武者の家(「兵の家」のこと)」と呼ばれる特定の家の出身者に限られる社会制度が発達した[29]

また、「棟梁」級の武士を追えば確かに天慶の勲功者につながる「武者」「兵の家」の者だが、「武士団」を追えば必ずしもそればかりではない。例えば、南北朝時代武蔵七党と呼ばれた小武士団は、明らかに「兵の家」の出身と言えるものばかりではない。

平安・鎌倉時代の武士は「武芸を特業とする職能集団」であり、その「武芸の中心は騎馬と射技(弓)」[29]であった。僦馬の党は騎馬をベースとした機動力を最大限に発揮した武装集団であり、それを鎮圧しようとする「兵(つわもの)」もまた騎馬武者でなければならなかっただろう。馬は兵が兵たるための第一の条件であり、そのため「名馬」は武士の一番の財産であった。

「牧」と「武士」

平安時代武士の必要条件が騎馬と射技であった。武士は先を争ってその中でも大きくて体力のある良馬を求めたが、馬の中のごく一部がそれに堪えられたとすれば、武士という一握りの特種技能集団が成立し得る条件を備えているのは、関東においてはそもそもが馬の牧場を意味する「牧」であった。10世紀始めの「延喜式」には全国の牧が定められているが、牧は信濃国上野国武蔵国に集中している。なお、最大の産地は奥州であった。

朝廷の武官は左右近衛、兵衛、衛門の六衛府を代表とするが、馬寮も武官の一部を構成し、信濃、関東に多くあった「牧」はその馬寮とつながっていた[30]。 馬寮の所轄は「御牧(勅旨牧)」で、「官牧」と呼ばれる「諸国牧」は兵部省の管轄であったが、そこから献上された馬の管理は馬寮であり、馬寮は直属の牧の他、畿内の官牧に管理を委託していた。

実際、関東の有力武士団は、朝廷の馬の放牧地「牧」の管理人が多かった。平将門も長洲と大結馬牧の二つの官牧を地盤としていた。[31]武蔵介源経基が将門の行動を謀反と京へ報告したとき、武蔵国の群盗追捕に動員されたのは、小野牧別当小野諸興、石田・阿久原牧も併せた秩父牧別当藤原惟条であった。これらの牧からは、後に武蔵七党と呼ばれる武士団が起こった。

頼朝の有力御家人、藤原秀郷流の直系を名乗る小山氏も同じである。また後で登場する千葉氏も名馬の保有で有名であり、『平家物語』の中で平山季重が自分の馬は千葉氏から手に入れたものだと自慢したり、鎌倉時代初期に源頼朝周辺に何度も献馬したりするなど、良質な「牧」を管理しているというイメージがあったようである。このように、関東における武士の発生は、馬の生産地を背景にしていた考えることができる[32]

それでは、京の周辺ではどうだったかといえば、白河院の時代の北面武士のを代表する源季範、源季実、源近康ら文徳源氏は、摂関家河内国古志郡坂門牧を本拠とし、坂戸源氏とも呼ばれた[33]。また、源頼信の郎党・藤原則経は、主人の命令によって河内国坂門御牧の住人・藤原公則の養子になったとある[34]。この時代に「住人」というのはその地の開発領主の意味である。また、「御牧」とあるので、坂門牧には朝廷の御牧と摂関家の牧が隣接していたか、両方を兼ねていたのかも知れない。いずれにしても、「牧」と「武者・武士」の関係をここにも見ることが出来る。

源義家の凋落後、「朝家の爪牙」の第一人者となった平正盛は、近国(かつ大国・熟国)の国守を務めると同時に右馬権頭であった。また、その子平忠盛白河院の御厩別当となり、白河院の御牧と、そこを拠点とする武士団を統括した。御厩別当は放牧地の総括管理者であるだけでなく、行幸に際しては、「車後(くるまじり)」「後騎」といって、院の牛車の後ろを検非違使とともに騎馬で警護に当たる地位でもあった[35]

その後、御厩別当は院庁における軍事貴族筆頭のポストとみなされるようになり、平清盛にも引き継がれた。「牧」が「武者=騎馬武者」の拠点であり、優良な「牧」のほとんどが官牧・御牧であった時、院庁の御厩別当は、多くの武士団を公的に支配下に置き、更には私的にも従属させてゆく重要なポストであった。

「武士」の認定

郎党ではなく、としての「武士」の認定は、なによりもまず、武官であることだろう。平将門の乱以降は、その平将門を滅ぼした天慶勲功者、藤原秀郷平貞盛平公雅、そして源経基の子孫達が、「朝家の爪牙」となっていったが、その彼らが兵(つわもの)として認識されるには、一定のプロセスが必要であった。個人としてはまずは武官の地位を得ることだろう。近衛府、兵衛府は形骸化し、実際には衛門府と、左衛門尉が兼任する検非違使馬寮、そして滝口、武者所、院政期においては北面下臈(いわゆる北面武士)である。

家系としての「兵の家」の形成過程で忘れてはならないのが、10世紀後半に現役武官ではないのに「朝家の爪牙」として動員されたことである。「大索(おおあなくり)」「盗索(ぬすびとあなくり)」と呼ばれ「武勇に堪えたる五位巳下」として天慶勲功者の子孫達が招集された[36]

扶桑略記960年天徳4年)10月2日条に、平将門の子が入京したとの噂に対して次ぎのような措置が取られたとある。

右衛門督朝忠朝臣に勅して、検非違使に仰せて捜し求めしむ。また延光をして満仲・義忠・春実等に対仰せしめて同じく伺い求むべし。

つまり、本来その任にあたる検非違使とは別に、天皇から、武官以外には禁止されていた弓箭を帯びての招集を受け、その任務の間、馬寮より官馬が支給される。こうして朝廷は市中にその「武威」をアピールして治安維持を行う。一方、召集された側の家系は「朝家の爪牙」として自己をアピールし、その後の時代に「兵の家」としての認識を定着してゆく。「大索(おおあなくり)」は結果的には官職によらず「武」を担う、「兵の家」の最初の認定式であったとも言える。

その「兵の家」が定着していくのは、ちょうど藤原道長の時代からであり、「武」に限らず、貴族社会全般に「家格」と「家業」が固定化の方向へ向かう流れの中での出来事である。それは、京の治安維持に必要な武力が、旧来の武官や、随身だけでは間に合わなくなり、平将門の乱での「朝家の爪牙」の役を果たした「兵の家」が、「家業」として、「武」を請け負いはじめるということでもあった。

今昔物語集』巻19第4話「摂津守満仲出家せる語」の出だしは次のようにはじまる。

今昔、円融院の御代に、左の馬の頭(かみ)源の満仲といふ人有けり、筑前守経基と云いける人の子也。世に並び無き兵(つわもの)にてありければ、公(おおやけ:ここでは天皇)も此を止ん事無き者になむ思しめしける。亦、大臣、公卿より始めて、世の人皆此を用いてぞ有りける。

源満仲は、安和の変などの印象から、藤原氏本流に臣従していたイメージが強いが、天皇を始めとして臣、公卿などに必要に応じて起用されていた、つまり支配階級全体に奉仕する傭兵部隊としての色彩がここから感じられる。

「家業」として「武」を請け負う彼らは、それを全うするために、自分自身の武力として家の子・郎党を養う。摂津守源満仲の多田荘は、まさにそのような兵站基地であり、かつ家の子・郎党の軍事訓練(狩り)の舞台でもあった。この段階での彼らは在京の官人、あるいは受領であるとともに、ひとつの「武士団」の長でもあった。

ただし、この段階での「武士団」は、それぞれの単位ではさほど多いものではない。『今昔物語集』の「摂津守満仲出家せる語」には500との数もあるが、それは『今昔物語集』が書かれた12世紀初めの段階での当時最大の都の武士団の印象を元にした誇張・文飾だとされる。

それほど多いものではないという理由は、当時必要とされた武力は、京の治安維持、要人の護衛、受領として赴任する際に引き連れ、在庁官人を押さえる程度のものであり、大規模な争乱などほとんど無かったこと。及び、京においては他の軍事貴族(京武者)と同盟し、あるいは盟主として、彼らを郎党ともしていた為である。「兵」の需要はあったがそれほど大きなものではなかったともいえる。

満仲は一方で、全国三十余か所に屯したとされる坂上党武士団の棟梁坂上頼次を摂津介に任命し、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して多田荘の警衛にあたらせている[37]

地方での「武士」の認定

一方、地方での「武士」の認定としては、戸田芳実[38]や、石井進[39]の国衙軍制論がこの問題に鋭く切り込んでいる。しかし、地方に本拠を置く軍事貴族も、中央の有力貴族に名簿(みょうぶ)を差し出し、私的な主従関係を結んで、多くの場合は直接京に出向いて奉仕し(それが「」であるが)、その推挙により武官の官職を得ている。石井進の国衙軍制論の図にある地方豪族軍の左衛門大夫平惟基、前上総介平忠常らはそうした存在であった。平惟基は『小右記』の藤原実資に、平忠常藤原教通に臣従している。そして彼らの軍事動員数は国司軍を圧倒的に上回る。

国司直属軍 - 「館の者共」(国司の私的従者 + 在庁官人)と異なり、「国の兵共」は、「譜第図」「胡簗注文」などの台帳に記載され、国司主催の狩りや、一宮での流鏑馬など、必要に応じて招集される程度のものであり[40]、自分自身の直接的利害に関わらなければ命を懸けて戦ったりはしない。その後の源平の争乱時にも、彼らは国衙を、或いは荘園を通じ、公権に基づき動員される場合には「駆武者」(かりむしゃ)と呼ばれ、戦闘の中核部隊ではなかった。


  1. ^ 平安時代後半から室町時代まで。
  2. ^ 関幸彦 『武士団研究の歩みⅠ』 p178
  3. ^ 中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもある。ただし日本史では、「武士」の概念は近世江戸時代)までに亘る。また「武士」論は「武士団」を率いる「」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」論ではその郎党も含めた社会的実態を対象とする。
  4. ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p86
  5. ^ 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20 尚、これは安田の著書の中からもっともその主張が短く凝縮されているものとしての引用であり、関幸彦の『武士団研究の歩み』によれば、1955年『北大史学』3での「武士発生史に関する覚え書き」において既に同様の見解を述べているという。
  6. ^ 佐藤進一 1965年 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p.184 尚、佐藤は1949年当時から、中世社会の身分構造に触れて、武士とは「武芸すなわち武技」を特技とした戦士集団であると述べていたそうである。
  7. ^ 戸田芳実 1974年 小学館『日本の歴史6-摂関時代』付録「月報6」 での「摂関時代」の著者・坂本省三との対談であるが、ともにそれ以前の中世史の通説に対する疑問、自らの主張の動機を実に簡潔に解りやすく述べている。
  8. ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』に収録
  9. ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』「人民闘争と国家の初段階」 p.30
  10. ^ 石井進 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』に「中世成立期の軍制」として収録
  11. ^ 石井進 1974年 『日本歴史第12巻 中世武士団』 「武士団とは何か」 p.235
  12. ^ 下向井龍彦 1985年 「国衙と武士」 『日本通史6 古代5』 p.177
  13. ^ 下向井龍彦 1998年 書評 元木泰雄著『武士の成立』 日本史研究 日本史研究会 1998/10
  14. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』に収録
  15. ^ 「致頼・致経あるいは頼親・維衡らは、武士発生史に関する一見解--治安警察の面がゆるむと民間に武力が興る--の説くところとは正反対で、彼ら自身が「治安」の紊乱(びんらん)者として立ち現われてくる。殺人や闘乱を日常茶飯事とするこれらの武士は、ロマンの主人公でも、叙事詩の英雄でもない。ただの散文的、政治史的にはこのうえもなく矮小な存在に過ぎない。」 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 増補改訂版 p25 同様の記述は『武士の成立 武士像の創出』p20にもある。この高橋の指摘もそれ以降の武士論研究にかなりのインパクトと、そして非難も生み出した。上横手雅敬が「アウトロー的な妙なものと受け取られかねない」と指摘したのもその点に関係しよう。
  16. ^ 「家」概念の発端だが未成熟後の「家」の概念と区別するためによく「イヘ」「イエ」と書かれる。
  17. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「武士を見直す」 p17
  18. ^ 『今昔物語集』でよく言われる
  19. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「付論 武士発生論と武の性格・機能をめぐって-諸氏の批判に応える」 p163
  20. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 付論 p169
  21. ^ 上横手雅敬 1972年 『シンポジウム日本歴史5』 「平安時代の内乱と武士団」 p141
  22. ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p82
  23. ^ 阿部猛 『教養の日本史 平安貴族の実像』 「薨卒伝に見る貴族の諸相」 p110
  24. ^ 『類聚三代格』 901年(延喜元年)12月21日官符 (漢文は戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』 p122)
  25. ^ 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』 p36-38
  26. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p29
  27. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p14
  28. ^ 近藤好和 「武具の中世化と武士の成立」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p176
  29. ^ a b 佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p193
  30. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p101
  31. ^ 福田豊彦 『東国の兵乱ともののふたち』 p17
  32. ^ 源平の争乱の頃、関東の有名な武士として長井斎藤別当実盛、稲毛重成の父・小山田別当有重、川越重頼の父・葛貫別当能隆など、「別当」の肩書きが「庄司」の肩書きと同じぐらい多く見られる。五味文彦は『増補・吾妻鏡の方法』の中で、その「別当」は何の別当であったのかということを問いかけ、『吾妻鏡』1181年(養和元年)7月20日条にある下文の宛所「下す 下総国御厩別当の所」を実例として、国衙の御厩管理部門、または同様な「所」の役職ではないかと推測する。また、『吾妻鏡』の下文は下川辺庄司行平への貢馬の免除であり、彼が牧を所有、あるいは管理していたことが察せられる。
  33. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p116
  34. ^ 横澤大典 「源頼信-河内源氏の成立」『王朝の変容と武者』 p392、『尊卑分脈』2巻 p316
  35. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p166
  36. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p91
  37. ^ 伊丹市文化財保存協会『絲海』第33号、2008年、4頁
  38. ^ 戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』に収録)
  39. ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像-合戦と暮しのおきて』
  40. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p152
  41. ^ 石母田正 『中世的世界の形成』 新書版 p55
  42. ^ 福田豊彦 1973年 『千葉常胤』 p48-52
  43. ^ 義江彰夫他 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p95
  44. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p35
  45. ^ 前掲 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20
  46. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p59 p71-74
  47. ^ 義江彰夫 「国衙支配と兵の登場」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p128-129
  48. ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p43
  49. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p94
  50. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p91
  51. ^ 高橋一樹 「中世荘園の立荘と王家・摂関家」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p185
  52. ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p194
  53. ^ 黒田紘一郎 「古代末期の東国における開発領主の位置」 『千葉氏の研究』 p28
  54. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p24 尚この区別は豊田武自身がp29で述べるように佐藤進一が1959年の『日本人物史大系』の中でまとめたもので、それまでの和辻哲郎、家永三郎、豊田武らによる長年に渡る論争を収束させ、現在では定説として受け入れられている。論争の過程は、関幸彦 『武士団研究の歩みⅡ』 「主従道徳をめぐる諸学説」に詳しい。
  55. ^ 石井進 『日本の歴史12 中世武士団』 p34
  56. ^ 「鎌倉遺文」4193:関幸彦 『武士の誕生』 p16-18
  57. ^ 「家督」という言葉自体は惣領制の頃から存在する。例えば『吾妻鏡』治承4年8月26日条にある「是重頼於秩父家強為次男流、相継家督」をめぐって戦前・戦後を通じ研究者の間で様々な議論がなされている。ただしここでは現在のイメージでの「家督」として用いた。
  58. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p191
  59. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p49
  60. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p358
  61. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p44
  62. ^ 『唐津市史 第三編 中世』 第二章 松浦党の発展 松浦党の一揆契約
  63. ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p96 p106
  64. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p155
  65. ^ 義江彰夫 前掲『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p155
  66. ^ 『水左記』1079年承暦3年)8月30日条に相模国で権大夫為季と押領使景平が合戦したことが見える。石井進 「相武の武士団」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p100
  67. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p158
  68. ^ 『愚菅抄』 巻5 後鳥羽 (カナはひらがなに改めた)
  69. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p148
  70. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』「打物騎兵と弓射歩兵」 p102
  71. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p200
  72. ^ 永原慶二 『荘園』 p288
  73. ^ 斎藤慎一 『中世武士の城』 p18
  74. ^ 永原慶二 『荘園』 p290






武士団と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武士団」の関連用語

武士団のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武士団のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの武士団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS