武士団 武士団の蔓延

武士団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/12 05:17 UTC 版)

武士団の蔓延

院政期以前

安田元久などの旧来の学説では、源義家後三年の役の頃から、「武士の棟梁」たる源氏と、在地武士団との主従関係が生まれ始めたとするが、『奥州後三年記』に見える義家の郎党の主力は京武者コネクションである[63]相模国の武士の代表として見られていた鎌倉権五郎景正(景政)、三浦の平太郎為次にしても、おそらくは親の代からの京武者コネクションによる参加と見てもおかしくはない。

11世紀-12世紀の間に、開発領主として発展していったことが豊富な資料で裏付けられる安芸国高田郡の藤原氏、但馬国温泉郷(ゆのごう)の平氏、伊賀国名張郡の丈部(はせつかべ)氏、下総国相馬御厨千葉氏、その他の例をみても、彼らが当時の「武士の棟梁」と言われた軍事貴族と人格的な主従関係をもっていたと証明することは非常に困難とされる[64]

その主従関係は、後の時代の『吾妻鏡』や、御家人の伝承の中にしか見いだすことが出来ない。千葉氏や、権五郎景正の子孫、ないしは一族とされる大庭氏などにおいては、『吾妻鏡』にある「相伝の家人」が、事実と相違することは既に見てきた通りである。

後に「武士」として登場する、関東の開発領主達の11世紀末までの状況がどうだったかといえば、当時はその所領支配は、郡司、郷司などの公的な諸職を媒介として、開墾を行い、村落を形成することを課題としはじめた頃であり、領地支配、あるいはその拡大において、隣接する開発領主との抗争が日常化するほどの飽和点にはまだ至ってはいない[65]

11世後半に相模国において武力衝突のあったことを示す記録はある[66]。しかし彼らは依然として「武芸をもって業とする」特種な存在であったといえる。その特種な存在であった千葉氏や、鎌倉権五郎景正の一族ら、辺境軍事貴族の子孫達が絡む、例えば大庭御厨の事件にしても、武士同士の戦乱とはほど遠い小競り合いにすぎない。

とはいえ、『後二条師通記1099年康和元年)5月3日条に、白河院より「諸国に兵仗多く満つ、宣旨を下され制止を加ふべし」との指示が記されている。この「諸国」は近畿でのことと思われるが、世相として自力救済的な様相を帯び始めたということは当時頻発した強訴の中にも見てとれるかもしれない。

源平の争乱

後の世の粉飾が入らない資料の中で、農村での武士団の社会密度の変化がうかがえるもとして、『信貴山縁起絵巻』(しぎさんえんぎえまき)と、『粉河寺縁起絵巻』がある。

前者は12世紀前半の鳥羽上皇院政前期、後者は12世紀後半の後白河院政の頃の作品とも言われる。それらの絵巻には、信貴山は大和国、粉河寺は紀伊国、と畿内でも隣接した地方の長者の家が描かれているが、前者には警護の武者も、門の前の空堀も、門の上の櫓も無いのに対し、後者ではそれらが描かれている。義江彰夫は同じ12世紀ながら、その初期と後期との間に地方の長者、すなわち開発領主の武装(武士団化)が進んだとしている[67]

『粉河寺縁起絵巻』は後白河法皇のプロデュースとも言われるが、はっきりはぜず、その成立時期は、12世紀後半から13世紀初頭までと諸説ある。仮に後白河法皇の承安版『後三年絵』と同時期の1171年承安元年)前後としても、『信貴山縁起絵巻』から、『愚菅抄』において慈円が「日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりける也」と書いた「保元の乱」、「平治の乱」を挿んで、更にその10年近く後ということになる。確かにこの間にも、在地社会での大きな変動があった。

また仮にもっとも遅い13世紀説が正しいとすれば、当然源平の争乱の後ということになる。その何十年かの間に、畿内の領主の一般像が、武装せぬ存在から、武士と武具を常備し、屋敷の守りも固める鎌倉時代御家人地頭にも似た、あるいはその御家人の姿に変貌していったことを如実に物語っている。

2つの絵巻は傍証にしか過ぎないが、武士団の蔓延はいつから、という問いに対しては、ちょうど12世紀に入ろうとする頃から、「保元の乱」、「平治の乱」を第一の節目として、更に源平の争乱においてピークに達したと見られている。二つの乱により、それまで京武者のよりどころであった摂関家家政機構の中の武力は解体し、一方の院北面平家の一人勝ちにより機能停止する。そして平家は京の内裏警護の為に、おそらくは国衙を通じて、諸国の武士の在京勤務、大番役を始める。これは地方の領主達にとって負担も確かに大きいものの、一方で「ハレ」の場であり、中央の勢力とのコネクションを得る為にもと意気込み、それがまた「武士身分の獲得」ともなった。

そして、1180年の源頼朝の挙兵以降、平家高倉院の命として、公卿受領から「兵士」を徴収、更に権門の諸荘園からも「兵士」を徴収する。また、それを攻める木曾義仲軍は、由緒正しい武士ばかりか「東国武士は夫(人夫)までが弓箭にたづさいて候えば」[68]と報告されるように、人夫までが弓箭を携えて戦闘に参加する。更に1184年に京を制圧した頼朝方も「器量に堪えたる輩」を広範に招集・動員する。開発領主が多数「武士」となったのはこの段階であろう。髙橋昌明はそれをこう評した。

かくして、鎌倉武士は武官系武士や軍事貴族の否定的肯定であり、肯定的否定であった。新しい酒が古い革袋に盛られたのである[69]

南北朝の争乱での武士の拡大

しかし、それでも源平の争乱は僅かに5年であり、しかも東から西に漸次戦場を移していった。その次ぎの武士層の拡大は、鎌倉幕府の崩壊から南北朝の争乱であり、この段階で日本全国が長年に渡る争乱の時代へと突入する。それに比べれば治承・寿永の乱(源平合戦)などは瞬間の出来事である。武器と戦闘様式から見ても、平安時代から鎌倉時代鎌倉幕府の滅亡までの間ではそう大きな変化は無い。近藤好和はそれが変化し始めたのは南北朝時代とする。つまり騎馬武者が弓箭でなく打物をメインの武器としても使い始めた[70]

また佐藤進一はその戦闘様式の変化を、槍の登場と合わせて「悪党」や「溢者」を前身とする「武士」層の末広がりとされる[71]。南北朝時代には少なくとも旧勢力からは「悪党」と呼ばれる者の増加と参戦があり、例えば赤松則村(円心)や、楠木正成は代表的な悪党とされる。しかし問題はそれよりも、もっと下層の武士の中に、それまでは武士身分を持たなかった多数の「悪党」が加わっていったことだろう。

永原慶二によれば、武士団が成立した12世紀から南北朝時代にかけての在地領主の軍事力は、同族的なイエを単位とするものであり、数10人から200人程度の兵力が単位軍団であり、大地域の軍事的統領はこうしたイエ軍団の連合を組織した。既に触れた「白旗一揆」や「桔梗一揆」、その他の国一揆などはみなそうであるとする[72]

室町時代から戦国時代へ

しかし、15世紀-16世紀になると、その様相は変わってくる。例えば「城郭」は、それまでは「かいだてを掻き、さかもぎを引いて」と言う臨時のバリケードと矢を射かけるための櫓であり、恒常的な設備ではなかったのに対し、15世紀以降から恒常的な施設として「城」が築かれるようになる。その早い例は鳥坂城(鶏冠城)、そして常陸の真壁城である[73]。それは平安時代から鎌倉時代のように、戦乱は限られた地方で一瞬起こるものから、全国的、かつ常態となったこと。そしてのそ戦乱の危機を領主達が、逃れられないものとして受け入れた時期とも言える。また、戦法が大きく変化して定着した。エリート騎馬武者による弓射戦など既に昔話でしかなくなっていた。

社会経済の変容も影響をもたらした。農業生産力の発達と流通の拡大によって、百姓身分の層の中からも、加地子収取権を買い取り集め、日常的営農から解放される層が広範に生まれる。その層が、地域の封建領主層に結びついて自らも小領主化して地侍となり、守護大名国人(旧地頭層)と主従関係を持って年貢の一部免除を受けて合戦時には「寄子」クラスの軍役を務める。

戦国大名が軍事力の裾野として組織していった甲斐武田氏の「軍役衆」、伊達氏の「名懸衆」、毛利氏の「一戸衆」「一所衆」などはみなその類のものである。そして、そうした農村からの小領主層の成長と、その大名国人との結合が、それまで弱体化されつもかろうじて残っていた荘園制にとどめを刺したといわれる[74]

「武士団」を単なる一般用語としてではなく、「武士」とは別の歴史用語としてあつかうならば、その範囲は11世紀後半から15-16世紀までの、イエ軍団をその類型として、それが戦国時代の、農村から生まれた「寄子」衆に置き換えられていったとも整理することが出来よう。


  1. ^ 平安時代後半から室町時代まで。
  2. ^ 関幸彦 『武士団研究の歩みⅠ』 p178
  3. ^ 中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもある。ただし日本史では、「武士」の概念は近世江戸時代)までに亘る。また「武士」論は「武士団」を率いる「」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」論ではその郎党も含めた社会的実態を対象とする。
  4. ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p86
  5. ^ 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20 尚、これは安田の著書の中からもっともその主張が短く凝縮されているものとしての引用であり、関幸彦の『武士団研究の歩み』によれば、1955年『北大史学』3での「武士発生史に関する覚え書き」において既に同様の見解を述べているという。
  6. ^ 佐藤進一 1965年 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p.184 尚、佐藤は1949年当時から、中世社会の身分構造に触れて、武士とは「武芸すなわち武技」を特技とした戦士集団であると述べていたそうである。
  7. ^ 戸田芳実 1974年 小学館『日本の歴史6-摂関時代』付録「月報6」 での「摂関時代」の著者・坂本省三との対談であるが、ともにそれ以前の中世史の通説に対する疑問、自らの主張の動機を実に簡潔に解りやすく述べている。
  8. ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』に収録
  9. ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』「人民闘争と国家の初段階」 p.30
  10. ^ 石井進 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』に「中世成立期の軍制」として収録
  11. ^ 石井進 1974年 『日本歴史第12巻 中世武士団』 「武士団とは何か」 p.235
  12. ^ 下向井龍彦 1985年 「国衙と武士」 『日本通史6 古代5』 p.177
  13. ^ 下向井龍彦 1998年 書評 元木泰雄著『武士の成立』 日本史研究 日本史研究会 1998/10
  14. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』に収録
  15. ^ 「致頼・致経あるいは頼親・維衡らは、武士発生史に関する一見解--治安警察の面がゆるむと民間に武力が興る--の説くところとは正反対で、彼ら自身が「治安」の紊乱(びんらん)者として立ち現われてくる。殺人や闘乱を日常茶飯事とするこれらの武士は、ロマンの主人公でも、叙事詩の英雄でもない。ただの散文的、政治史的にはこのうえもなく矮小な存在に過ぎない。」 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 増補改訂版 p25 同様の記述は『武士の成立 武士像の創出』p20にもある。この高橋の指摘もそれ以降の武士論研究にかなりのインパクトと、そして非難も生み出した。上横手雅敬が「アウトロー的な妙なものと受け取られかねない」と指摘したのもその点に関係しよう。
  16. ^ 「家」概念の発端だが未成熟後の「家」の概念と区別するためによく「イヘ」「イエ」と書かれる。
  17. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「武士を見直す」 p17
  18. ^ 『今昔物語集』でよく言われる
  19. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「付論 武士発生論と武の性格・機能をめぐって-諸氏の批判に応える」 p163
  20. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 付論 p169
  21. ^ 上横手雅敬 1972年 『シンポジウム日本歴史5』 「平安時代の内乱と武士団」 p141
  22. ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p82
  23. ^ 阿部猛 『教養の日本史 平安貴族の実像』 「薨卒伝に見る貴族の諸相」 p110
  24. ^ 『類聚三代格』 901年(延喜元年)12月21日官符 (漢文は戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』 p122)
  25. ^ 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』 p36-38
  26. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p29
  27. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p14
  28. ^ 近藤好和 「武具の中世化と武士の成立」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p176
  29. ^ a b 佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p193
  30. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p101
  31. ^ 福田豊彦 『東国の兵乱ともののふたち』 p17
  32. ^ 源平の争乱の頃、関東の有名な武士として長井斎藤別当実盛、稲毛重成の父・小山田別当有重、川越重頼の父・葛貫別当能隆など、「別当」の肩書きが「庄司」の肩書きと同じぐらい多く見られる。五味文彦は『増補・吾妻鏡の方法』の中で、その「別当」は何の別当であったのかということを問いかけ、『吾妻鏡』1181年(養和元年)7月20日条にある下文の宛所「下す 下総国御厩別当の所」を実例として、国衙の御厩管理部門、または同様な「所」の役職ではないかと推測する。また、『吾妻鏡』の下文は下川辺庄司行平への貢馬の免除であり、彼が牧を所有、あるいは管理していたことが察せられる。
  33. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p116
  34. ^ 横澤大典 「源頼信-河内源氏の成立」『王朝の変容と武者』 p392、『尊卑分脈』2巻 p316
  35. ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p166
  36. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p91
  37. ^ 伊丹市文化財保存協会『絲海』第33号、2008年、4頁
  38. ^ 戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』に収録)
  39. ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像-合戦と暮しのおきて』
  40. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p152
  41. ^ 石母田正 『中世的世界の形成』 新書版 p55
  42. ^ 福田豊彦 1973年 『千葉常胤』 p48-52
  43. ^ 義江彰夫他 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p95
  44. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p35
  45. ^ 前掲 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20
  46. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p59 p71-74
  47. ^ 義江彰夫 「国衙支配と兵の登場」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p128-129
  48. ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p43
  49. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p94
  50. ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p91
  51. ^ 高橋一樹 「中世荘園の立荘と王家・摂関家」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p185
  52. ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p194
  53. ^ 黒田紘一郎 「古代末期の東国における開発領主の位置」 『千葉氏の研究』 p28
  54. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p24 尚この区別は豊田武自身がp29で述べるように佐藤進一が1959年の『日本人物史大系』の中でまとめたもので、それまでの和辻哲郎、家永三郎、豊田武らによる長年に渡る論争を収束させ、現在では定説として受け入れられている。論争の過程は、関幸彦 『武士団研究の歩みⅡ』 「主従道徳をめぐる諸学説」に詳しい。
  55. ^ 石井進 『日本の歴史12 中世武士団』 p34
  56. ^ 「鎌倉遺文」4193:関幸彦 『武士の誕生』 p16-18
  57. ^ 「家督」という言葉自体は惣領制の頃から存在する。例えば『吾妻鏡』治承4年8月26日条にある「是重頼於秩父家強為次男流、相継家督」をめぐって戦前・戦後を通じ研究者の間で様々な議論がなされている。ただしここでは現在のイメージでの「家督」として用いた。
  58. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p191
  59. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p49
  60. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p358
  61. ^ 豊田武 『武士団と村落』 p44
  62. ^ 『唐津市史 第三編 中世』 第二章 松浦党の発展 松浦党の一揆契約
  63. ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p96 p106
  64. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p155
  65. ^ 義江彰夫 前掲『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p155
  66. ^ 『水左記』1079年承暦3年)8月30日条に相模国で権大夫為季と押領使景平が合戦したことが見える。石井進 「相武の武士団」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p100
  67. ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p158
  68. ^ 『愚菅抄』 巻5 後鳥羽 (カナはひらがなに改めた)
  69. ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p148
  70. ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』「打物騎兵と弓射歩兵」 p102
  71. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p200
  72. ^ 永原慶二 『荘園』 p288
  73. ^ 斎藤慎一 『中世武士の城』 p18
  74. ^ 永原慶二 『荘園』 p290






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