武士団
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「開発領主」と「武士団」
私営田経営者と「兵」
「私営田経営者」「私営田領主」という概念は、戦後第一世代の石母田正の『中世的世界の形成』により、学問的に定着された概念である[41]。
その「私営田経営者」の時代に平将門の祖父・平高望らが関東に下向したのは板東群盗を押さえる為といわれるが、彼ら中央から下った軍事貴族は、国司と私営田領主の紛争解決の担い手としても位置づけられた。その最大の事件が平将門の乱である。しかし、この時代の兵力は、基本的に配下の農民をかき集めて武器を持たせる程度[42][43]であり、少数の上兵(騎馬武者)を除けば、ほとんど烏合の衆と変わらない。
そして戦闘員と一般農民の区別がまだ生じていなかった為に、当時の関東の合戦は、敵の本拠地、「営所」を攻撃するだけでなく、「与力伴類の舎宅、員(かず)の如く焼き払う」という焦土戦術がとられた。これは、当時の関東では土地はいくらでもあり、要は土地を耕す労働力の編成が問題なのであって、敵を滅ぼすとは、その敵の兵力であり、同時に労働力であるそれら与力伴類にダメージを与えて四散させることが重要であったのである。
この状態は、平将門の乱(930年-931年)から100年後の平忠常の乱(1028年-1031年)においても変わらず、それが故に平忠常の乱は近隣数ヶ国が「亡国」となり、朝廷はその復興の為に4年間も官物を免除しなければならなかったほどである。
安田元久などの旧来の学説では、在地経営が私営田経営であった平将門から平忠常の時代は、「兵」の時代であって、「武士」はその次ぎの段階であるとする。確かにこの時代の戦闘の様式は中世武士団による戦闘の様式とは大きく異なる。
開発領主
福田豊彦は「私営田領主」を「一口でいえば、広い土地を自分で直接経営する大土地所有者」[44]とする。もちろん、「私営田領主」「私営田経営者」の説明がそれで済む訳ではないが、それに続く「開発領主」との対比においては、そのひとことが大きな特徴となる。安田元久らの学説では「武士」と「兵」の違いは「領地」の支配形態にもとめられた。つまり「武士」と呼べるのは、地方経済が「私営田経営」から「開発領主」の段階に移行してからだというのである[45]。
福田豊彦によれば[46]、後に鎌倉幕府の基盤となる「開発領主」は、「私営田経営(領主)」とは根本的に異なった所領経営の方法をとった。彼らは確かに、佃、手作(てづくり)、門田(かどた)などという直接耕作農地も持ってはいたが、大きな特徴は基本的には農業経営から離れ、農民から「加地子」を取る本格的な「領主」へと転化し始めることである。その時期は関東においては平忠常の乱が終わり、そこでの「亡国」といわれるほどの焦土戦による荒廃から、復興・再開発が始められた段階、つまり11世紀後半から12世紀初頭に相当する。
「開発領主」が生まれる過程は、その地の有力者が一族子弟のみならず、近隣の農民や諸国から流入した浮浪人などを組織して荒地の開拓を行い、その従事者を新しい村落に編成することに始まる。 そして、新しく開拓した地、そしてその村落は開拓した者の私領となる。私領といってもその地の課税が免除される訳ではないが、国衙は旧来の郡とは別の、新しい徴税単位として、特別な命令書により税を軽減し、開発領主の私領領有を認め、同時に開発領主がその地の納税義務を負うことになる。その特別な命令書(符)ということから、その地は「別符」と呼ばれ、また徴税単位として「郷」と呼ばれた。
別符による「郷」は、「郡」の下の「郷」ではなく、独立した徴税単位として「郡」と並列するものである。そうして律令制以来の郡・郷が、新しい郡・郷に再編されていく。
誰が開発領主となったのかと言えば、その領域そのものの法的所有、または国衙による開発の承認が重要なテコとなったため、自ら国衙の在庁官人となったか、あるいは国司と結びついた、留住から土着へと至った軍事貴族や前司の子弟など王臣子孫、そして一部の土豪だろう[47]。信州から関東にかけての官牧、御牧の管理者、京の貴族の荘園の荘官として下向した者達がそこを基盤に周辺の開発を行うケースもあった。
ただし、地方の武士は、開発領主であることを経済的地盤としていたが、開発領主=武士であり、武士団を率いていた訳ではない。源平の争乱を生き抜き、少なくともその時期に武士となり、鎌倉時代に御家人、地頭となった者、一部の荘園の下司について以外に、後世に記録が残っていないことを考慮する必要がある。「国の兵共」が、「譜第図」や「胡簗注文」などの台帳に記載されるということ[48]自体が、彼らが国衙支配下の開発領主達の中で特種な存在であったことを物語っている。
「領地」を媒介とする「武士団」
関東を意識しての話となるが、記録に残る開発領主となった武士らが、戦闘集団である「武士団」を組織したとき、それはかき集めた農民兵ではなく、また「傭兵」でもなく、領主間で私的に結ばれた戦闘集団である。その最小単位の構成員は、あるじとその家の子、郎党である。力を持った武士らが開発領主となるとき、その兄弟子弟、親類縁者も周辺を開拓し、小規模開発領主となって、その一族が結束してひとつの「武士団」となる。
例えば常陸大掾氏、千葉氏、上総氏の系図を見ると、その時期に兄弟子弟が、周辺の郷や名(みょう)に分散し、その名の字を名乗る。ちょうどその頃に登場した三浦氏の場合は、家長・三浦大介義明の弟は岡崎を名乗り、その嫡男は佐那田(真田とも)を名乗る。義明の長男は杉本を名乗り、その長男は和田を名乗る。分家が広がり、それぞれの地の開拓を行い、それぞれが郎党を養い、事が起きれば一族が結集する。頼朝の挙兵直後の勢力はそうした三浦一族、千葉一族、上総介の一族、そして江戸氏、河越氏、豊島氏、畠山氏ら、秩父の一族がベースであった。
開発領主の重層的結合
武士の最小単位
「侍」としての「武士」には、『平家物語』の一ノ谷の戦いで先陣争いを演じた武蔵国の住人平山武者所季重や、熊谷次郎直実とその子・小次郎直家のように、自分自身とその子弟の他は乗馬の郎党を持たない者もいる。
しかし平山武者所季重も熊谷次郎直実も主人を持たない独立した武者であり、平山季重は武者所を名乗るように朝廷や公卿に仕える「侍」であり武官であった。おそらく彼らは在地においては国衙領の小さな郷の領主であったのだろう。
豪族的領主と少領主
源頼朝の元で同じ御家人と呼ばれはしても、下川辺庄司行平、葛西御厨の葛西清重、畠山庄司重忠などは、大規模寄進荘園の在地領主である。そして千葉介常胤、上総介広常、三浦介義澄、小山大掾朝政などは、国衙の在庁官人でもあり、それを足がかりとして複数の郡、別符の郷、荘園にまたがる勢力を広げた開発領主である。福田富彦は、後者をひとつの郷、荘園、郡を基礎とした領主と区別して「豪族的領主」と呼んでいる[49]。石井進の図式の地方豪族軍に相当する。
上総介広常の父・常澄の所領である印東庄において、「預所」菅原定隆との、年貢をめぐった相論に関する文書数通が、『醍醐雑事記』の紙背文書に見つかり、それによって、印東庄を構成する「村郷」には、「藤原」「中臣」「文屋」「平」「刈田」などの本姓をもつ郷司、村司が居たことが知られる[50]。
「平」は上総介平常澄の同族かもしれないが、「藤原」はもとより、「中臣」、「文屋」も、平安時代前期には中流貴族として出てくる氏(うじ)である。「刈田」は中央の貴族としては知られないが、『香取文書』には同姓のものが郡司判官代として出てくるという。いずれも農民ではない。彼らもまた、小さい単位ながら、農民を支配する側の荘園下級役職者であると同時に、小規模ながら、その「村郷」の領主であった。彼らは、元々は武士では無かったかもしれないが、印東庄司を兼ねる上総介平常澄から動員が掛かれば、鎧を着、弓箭・兵仗を帯びて、数人から10数人の郎党とともに騎馬武者として駆けつける立場の者も相当含まれていたと思われている。
複数の郡、荘園にまたがる広大な領地を知行する「豪族的領主」は、その下に郡や別府の郷、そして荘園、更にその下の村郷に支配が及び、それぞれの段階が小規模な「武士団」である。そしてそれらが合わさって「大武士団」として行動する。『平家物語』で、武蔵の国の住人(開発領主)河原太郎・次郎の兄弟に「大名は自ら手を下さなくても、家来の手柄を名誉とすることができるが、われらのようなものは自分で手を下さなくてはどうしようもない。」といわれたその「大名」は、その「大武士団」を率いた「豪族的領主」である。
このことから、戦後第一世代の研究者は、この領主と「武士団」の、領地を媒介とした重層的結合関係と、そこに至たる社会経済・地方経済の成熟を重要視した。もちろん、それが後に鎌倉幕府、いわゆる「武士の時代」の原動力にとなったと考えたからである。そしてそこから「武士団」が重層的な関係を築く段階以降を「武士」と、そしてそれに至る前段階を「兵(つわもの)」と学術用語として定義したのである。
開発領主の地位
12世紀の中葉に起こった相模国の大庭御厨の濫妨と、下総国の相馬御厨の事件は、当時における在庁官人 = 在地領主の変貌と、国司・目代との対立の激しさ、在地領主層の地位の脆弱さと限界を如実に示している。
まず開発領主の領地領有とは、郡司、郷司という「職(しき)」において国司・国衙から保証されたものであるが、しかしそうである限り国司側はその任を解く権限を持っており、それは相馬郡において現実に行使された。更にその周囲には、他の開発領主が隙あらばと狙っている。相馬御厨については最初の段階では同族の上総権介常澄、そして源義朝である。
そうした不安定な状態を確実なものにしようと、開発領主は荘園の寄進を行う。もっとも、寄進系荘園の一般的形態は、自分の私領だけの寄進ではなく、その周辺の国衙領も切り取る(加納)形で行われるし、必ずしも在地領主の主導で行われた訳ではないことにも注意は必要である[51]。それを踏まえた上で、ここでは在地領主の側から見ていくことにするが、しかしその、荘園寄進もそれだけでは確実なものではないことが、この相馬御厨、そして大庭御厨の事件の中に見てとれる。
平家政権下での更なる不安定さ
その不安定さは平家のクーデター以降いよいよピークに達する。平家は数十ヵ国の知行国主となるとともに、平家の家人となった武士団を通じて、他の武士団・開発領主を圧迫する[52]。それは千葉常胤にとっては、1161年(永暦2年)正月の平家を後ろ盾とした佐竹義宗の相馬御厨強奪として現れる。佐竹氏と、千葉介、上総介一族との対立はここに始まり、それが解消するのは、1180年の源頼朝の旗揚げに、千葉介、上総介一族が合流し、「富士川の戦い」に平家を破ったあと、転じて常陸に佐竹氏を攻めて敗走させるまで待たなければならなかった。
千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が美化して伝えるような、両氏が代々源氏の家人であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであった。『吾妻鏡』には書かれていない相馬御厨での経緯を見れば、特に千葉常胤にとって、源義朝は「御恩」を感じるような相手ではなかったことは明らかである[53]。
1180年(治承4年)の源頼朝の旗挙げの後、その父源義朝が暴力的に奪い取ろうとしたものを、源頼朝は「本領安堵」した。それが頼朝の元への関東武士団の結束力の源泉であった。関東においては、「武家の棟梁」は、少なくとも頼朝の以前には居なかったと言える。そして頼朝が、ある意味勝手に「本領安堵」の下文(くだしぶみ)を出すだけで、それを「御恩」として「奉公」に励むほど、彼らの所領は危ういものであったと言える。
- ^ 平安時代後半から室町時代まで。
- ^ 関幸彦 『武士団研究の歩みⅠ』 p178
- ^ 中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもある。ただし日本史では、「武士」の概念は近世(江戸時代)までに亘る。また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」論ではその郎党も含めた社会的実態を対象とする。
- ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p86
- ^ 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20 尚、これは安田の著書の中からもっともその主張が短く凝縮されているものとしての引用であり、関幸彦の『武士団研究の歩み』によれば、1955年『北大史学』3での「武士発生史に関する覚え書き」において既に同様の見解を述べているという。
- ^ 佐藤進一 1965年 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p.184 尚、佐藤は1949年当時から、中世社会の身分構造に触れて、武士とは「武芸すなわち武技」を特技とした戦士集団であると述べていたそうである。
- ^ 戸田芳実 1974年 小学館『日本の歴史6-摂関時代』付録「月報6」 での「摂関時代」の著者・坂本省三との対談であるが、ともにそれ以前の中世史の通説に対する疑問、自らの主張の動機を実に簡潔に解りやすく述べている。
- ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』に収録
- ^ 戸田芳実 『初期中世社会史の研究』「人民闘争と国家の初段階」 p.30
- ^ 石井進 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』に「中世成立期の軍制」として収録
- ^ 石井進 1974年 『日本歴史第12巻 中世武士団』 「武士団とは何か」 p.235
- ^ 下向井龍彦 1985年 「国衙と武士」 『日本通史6 古代5』 p.177
- ^ 下向井龍彦 1998年 書評 元木泰雄著『武士の成立』 日本史研究 日本史研究会 1998/10
- ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』に収録
- ^ 「致頼・致経あるいは頼親・維衡らは、武士発生史に関する一見解--治安警察の面がゆるむと民間に武力が興る--の説くところとは正反対で、彼ら自身が「治安」の紊乱(びんらん)者として立ち現われてくる。殺人や闘乱を日常茶飯事とするこれらの武士は、ロマンの主人公でも、叙事詩の英雄でもない。ただの散文的、政治史的にはこのうえもなく矮小な存在に過ぎない。」 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 増補改訂版 p25 同様の記述は『武士の成立 武士像の創出』p20にもある。この高橋の指摘もそれ以降の武士論研究にかなりのインパクトと、そして非難も生み出した。上横手雅敬が「アウトロー的な妙なものと受け取られかねない」と指摘したのもその点に関係しよう。
- ^ 「家」概念の発端だが未成熟後の「家」の概念と区別するためによく「イヘ」「イエ」と書かれる。
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「武士を見直す」 p17
- ^ 『今昔物語集』でよく言われる
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「付論 武士発生論と武の性格・機能をめぐって-諸氏の批判に応える」 p163
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 付論 p169
- ^ 上横手雅敬 1972年 『シンポジウム日本歴史5』 「平安時代の内乱と武士団」 p141
- ^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p82
- ^ 阿部猛 『教養の日本史 平安貴族の実像』 「薨卒伝に見る貴族の諸相」 p110
- ^ 『類聚三代格』 901年(延喜元年)12月21日官符 (漢文は戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』 p122)
- ^ 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』 p36-38
- ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p29
- ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p14
- ^ 近藤好和 「武具の中世化と武士の成立」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p176
- ^ a b 佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p193
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p101
- ^ 福田豊彦 『東国の兵乱ともののふたち』 p17
- ^ 源平の争乱の頃、関東の有名な武士として長井斎藤別当実盛、稲毛重成の父・小山田別当有重、川越重頼の父・葛貫別当能隆など、「別当」の肩書きが「庄司」の肩書きと同じぐらい多く見られる。五味文彦は『増補・吾妻鏡の方法』の中で、その「別当」は何の別当であったのかということを問いかけ、『吾妻鏡』1181年(養和元年)7月20日条にある下文の宛所「下す 下総国御厩別当の所」を実例として、国衙の御厩管理部門、または同様な「所」の役職ではないかと推測する。また、『吾妻鏡』の下文は下川辺庄司行平への貢馬の免除であり、彼が牧を所有、あるいは管理していたことが察せられる。
- ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p116
- ^ 横澤大典 「源頼信-河内源氏の成立」『王朝の変容と武者』 p392、『尊卑分脈』2巻 p316
- ^ 髙橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p166
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p91
- ^ 伊丹市文化財保存協会『絲海』第33号、2008年、4頁
- ^ 戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』に収録)
- ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像-合戦と暮しのおきて』
- ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p152
- ^ 石母田正 『中世的世界の形成』 新書版 p55
- ^ 福田豊彦 1973年 『千葉常胤』 p48-52
- ^ 義江彰夫他 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p95
- ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p35
- ^ 前掲 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20
- ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p59 p71-74
- ^ 義江彰夫 「国衙支配と兵の登場」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p128-129
- ^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p43
- ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p94
- ^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p91
- ^ 高橋一樹 「中世荘園の立荘と王家・摂関家」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p185
- ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p194
- ^ 黒田紘一郎 「古代末期の東国における開発領主の位置」 『千葉氏の研究』 p28
- ^ 豊田武 『武士団と村落』 p24 尚この区別は豊田武自身がp29で述べるように佐藤進一が1959年の『日本人物史大系』の中でまとめたもので、それまでの和辻哲郎、家永三郎、豊田武らによる長年に渡る論争を収束させ、現在では定説として受け入れられている。論争の過程は、関幸彦 『武士団研究の歩みⅡ』 「主従道徳をめぐる諸学説」に詳しい。
- ^ 石井進 『日本の歴史12 中世武士団』 p34
- ^ 「鎌倉遺文」4193:関幸彦 『武士の誕生』 p16-18
- ^ 「家督」という言葉自体は惣領制の頃から存在する。例えば『吾妻鏡』治承4年8月26日条にある「是重頼於秩父家強為次男流、相継家督」をめぐって戦前・戦後を通じ研究者の間で様々な議論がなされている。ただしここでは現在のイメージでの「家督」として用いた。
- ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p191
- ^ 豊田武 『武士団と村落』 p49
- ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p358
- ^ 豊田武 『武士団と村落』 p44
- ^ 『唐津市史 第三編 中世』 第二章 松浦党の発展 松浦党の一揆契約
- ^ 元木泰雄 『武士の成立』 p96 p106
- ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p155
- ^ 義江彰夫 前掲『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p155
- ^ 『水左記』1079年(承暦3年)8月30日条に相模国で権大夫為季と押領使景平が合戦したことが見える。石井進 「相武の武士団」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p100
- ^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』p158
- ^ 『愚菅抄』 巻5 後鳥羽 (カナはひらがなに改めた)
- ^ 髙橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p148
- ^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』「打物騎兵と弓射歩兵」 p102
- ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p200
- ^ 永原慶二 『荘園』 p288
- ^ 斎藤慎一 『中世武士の城』 p18
- ^ 永原慶二 『荘園』 p290
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