仮名 (文字) 概説

仮名 (文字)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 13:30 UTC 版)

概説

仮名の生まれる以前

日本に漢字が伝来する以前、日本語には固有の文字がなかった[注 1]。しかし、中国大陸から漢字とともに伝来した「漢文」は当然ながら中国語に基づいた書記法であり、音韻や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「漢文訓読」である。

しかし地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。この表記法を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。

このような表記法は、仮借(かしゃ)の手法に基づき日本以外の漢字文化圏の地域でも古くから行なわれているもので、中国でも漢字を持たない異民族に由来する文物に関しては、音によって漢字を割り当てていた。邪馬台国の「卑弥呼」という表記などがこれに当たる。

漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、方法の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。したがって借字でもって日本語の文をつづることは、韻文である和歌でもっぱら用いられた。和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。

仮名の登場

正倉院所蔵の奈良時代の公文書のなかには、本来「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字を表すことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。

やがて仏典を講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音や和訓を示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。これが現在みられる片仮名の源流である。この片仮名の源流といえるものは、文献上では平安時代初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。

また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。これは借字としての漢字を草書よりもさらに崩した書体でもって記したものである。その平仮名を数字分の続け字すなわち連綿にすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。これによって『土佐日記』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。

『土佐日記』 藤原定家紀貫之自筆本より臨書したものの部分[注 2]

借字が「かな」と呼ばれるようになったのは、漢字を真名(まな)といったのに対照してのものである。当初は「かりな」と読み、撥音便形「かんな」を経て「かな」の形に定着した[注 3]。もしくは、梵語のカラナ (करण、Karana、「音字」の意)からの転化という説もある[3][4]。古くは単に「かな」といえば平仮名のことを指した。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことであるが、これは「平易な文字」という意味だといわれる。また片仮名の「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということである。

」については、万葉仮名では /e/ と /je/ との音を書き分けたが、その後、日本語では両者の音の区別が失われたため、平仮名・片仮名では書き分けされなかった。

」については、平安時代末期に字形が定まった。

仮名の登場後

平安時代の平仮名の文章和文は、単語は大和言葉であり、平仮名を用いるのが基本であった。しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能で漢語を用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。

一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。さらに、助詞などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。

その両者はやがて統合され、『今昔物語集』に見られるような、日本語の文章の中に漢語を数多く取り入れた和漢混淆文として発展していった。成立当初の『今昔物語集』は、漢字で記された語句のあいだに小さく片仮名を書き添える宣命書きと同じスタイルで書かれていたが、やがて漢字と仮名を同じ大きさで記すようになった。平仮名と片仮名の使い分けは長年に渡って統一されなかったが、第二次世界大戦後あたりから、文章の表記には原則として平仮名を用い、片仮名は外来語など特殊な場合に用いるスタイルとなった。

地獄草紙」(部分) 平安時代末に描かれたとみられる絵巻物。その詞書は、現代とあまり変わらない字体の漢字と仮名で書かれている。

平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまな異体字がある。現在この異体字の平仮名を変体仮名と称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらは高野切などをはじめとする古筆切として残されている。こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名は明治時代になると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。


注釈

  1. ^ 江戸時代以降国粋主義の高まりにより、漢字の伝来以前に「神代文字」という文字が日本にあったという主張が行われたが、現在では否定されている。
  2. ^ 文暦2年(1235年)、京都蓮華王院の宝蔵には紀貫之自筆の『土左日記』(その表紙には「土左日記」と記されていたという)が所蔵されていたが、定家はそれを閲覧する機会を得たので、その本文を書き写し写本を作った。画像はその巻末に、写本の本文とは別に書き写した部分である。この臨書の最後には、「為令知手跡之躰、如形写留之。謀詐之輩、以他手跡多称其筆。可謂奇怪」(貫之の手跡がこういうものだと知らしめるために、その通りにここに写しておく。いんちきなことをする連中が、他人の手跡を多く持ち出して貫之のものだと称しているからである。奇っ怪というべき事である)と記されており、当時貫之筆と称するものが多く出まわっていたようである。この臨書がどこまで貫之本人の書風に迫るものなのかは明らかではないが、「乎」(を)や「散」(さ)などの変体仮名は別として、おおむね現在のものに近い字体の仮名が連綿で記されているのが見て取れる。『原典をめざして―古典文学のための書誌―』(橋本不美男 笠間書院、1983年)第二章「古典作品の原典復原」参照。
  3. ^ なお「仮名」を「かな」と読むのは常用漢字表付表で認められた熟字訓である。「か」は「かり」の転訛であり、漢字音ではないので、重箱読みには該当しない。
  4. ^ 現在一般に読まれる『古今和歌集』の本文では、この和歌の第四句は「はるたつけふの」となっている。また見ての通り、本文は変体仮名をまじえて記されている。
  5. ^ 藤原宮平城宮をはじめとする平安時代以前の各地の遺跡より「なにはづ」や「あさかやま」の歌を記した木簡が出土している。また法隆寺五重塔の部材からも「なにはづ」の歌の墨書が見つかっているが、これらは当然ながらいずれも借字で記されている。『紫香楽宮出土の歌木簡について』(『奈良女子大学21世紀COEプログラム 古代日本形成の特質解明の研究教育拠点』、2008年)参照。
  6. ^ ただし「こひ」(恋)については、以下の例外が存在する。
    関白前左大臣家に人々、経年恋(年を経る恋)といふ心をよみ侍りける 左大臣源俊房
    われが身は とがへるたかと なりにけり としはふれども こゐはわすれず(『後拾遺和歌集』巻第十一・恋一)
    『後拾遺和歌集』(『新日本古典文学大系』8 岩波書店、1994年)より。「こゐ」というのは、鷹を飼うのに止まらせる止まり木のことをいう(「木居」という漢字がふつう当てられている)。飼われている鷹が飼い主のところから逃げ出して年を経ても、その羽を休めた止まり木は忘れることができず、最後には戻ってきてしまう。それと同じように、自分も以前共に暮らしたが別れた人を忘れられず、結局また恋しく思っている…という趣意である。このなかで「こゐ」(木居)を「こひ」(恋)の掛詞としているが、恋を「こゐ」とすることは当時慣習的に行われていた仮名遣いとも相違する。しかしこの和歌は恋の部に入れられており、詞書にも「経年恋」とあることから、「こゐ」が恋であるとする引き当てが可能であった。「こひ」という表記が圧倒的に優勢な当時の状況で、その文脈から取り出してなんの断りもなしに「こゐ」とだけ書かれたのでは、恋という意味には理解されなかったのであり、「こゐ」を恋とするのはごく特殊な例だったとみてよい。
  7. ^ 以上のことは平仮名における事情であって、当時の片仮名の場合には平仮名と比べて仮名遣いにかなりの変則が見られる。しかしこれは片仮名がその当初より、仏典に記された漢字の意味や読み方を備忘として記すために生れ、使われていたことによる。たとえば「恋」という漢字の読みが「コイ」などと書かれていたとしても、「恋」という漢字の意味をあらかじめ知っていれば、その「コイ」がどういう意味なのか理解できる。漢字の意味や読み方を示すためという目的から、その仮名遣いのありかたは平仮名と比べてゆるやかであった。
  8. ^ なお、同一の音素ではあってもその環境によってさまざまな異音を生じるのは当然のことであるが、文字論の範疇を外れるのでここではふれない。各行の項目(あ行か行さ行た行な行は行ま行や行ら行わ行)などを随意参照されたい。
  9. ^ この名称は日本統治時代に客家が「広東人」と称されたことによるものであり、現代一般に広東語と称される粤語系の広州語および香港語とは無関係。

出典

  1. ^ これに対し、漢字を真名と呼び、元来の字義および音を持ち、区別される。
  2. ^ ただし和字は和製漢字を意味することもある。
  3. ^ 国語のため 第二 上田萬年 1903年 P.28
  4. ^ 増訂教育辞典 篠原助市 1935年 P.157
  5. ^ 『古今和歌集』(『日本古典文学大系』8 岩波書店、1962年)より。ただし「古注」と呼ばれる部分は略した。
  6. ^ 『源氏物語 一』(『新日本古典文学大系』19 ま、1993年)より。
  7. ^ 橋本治 橋爪大三郎 『だめだし日本語論』 太田出版 2017年 ISBN 978-4-7783-1578-8 pp.79 - 80.






仮名 (文字)と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「仮名 (文字)」の関連用語

仮名 (文字)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



仮名 (文字)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの仮名 (文字) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS