仮名文字運動
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1914年6月、時事新報に自身のあたためてきたカナモジ論を発表した。カタカナの書体を発表した。この考えにもとづき、1916年夏には、京都高等工芸学校出身の平尾善治にカタカナの書体の設計を依頼した。 1920年11月1日に『国字改良論』の第1版を出版するとともに、大阪市東区において仮名文字協会(現、財団法人カナモジカイ)を設立した。1922年4月には、仮名文字協会が発行する雑誌『カナ ノ ヒカリ』第3号に、カナモジタイプライターのキー配列の案を発表した。さらに、1922年8月には『国字改良論』第4版にキー配列の第2案を発表した。 山下は、様々な研究を重ねた後に『改良カナ文字』が妥当であるとの結論に達し、字形の研究とタイプライターの製作に取り組んだ。ジュネーブで開かれた1922年の国際労働機関の総会ののち、渡航中の病を押して米国のニューヨークにわたり、アンダーウッド・タイプライター会社を訪れた。設計部長のバーナム・クース・スティックニーとカナ文字タイプライターの書体およびキー配列についてうちあわせをし、1923年1月、議論のすえに決めたキー配列のタイプライターを発注した。(しかしながら、キー配列はタイプライターの製造にあたってさらに変更された。実際に製造されたカナ文字タイプライターのキー配列は、1923年2月に出願されたアメリカ合衆国特許第1,549,622号のものである。そして、その明細書に記された発明者はスティックニーただひとりである。) タイプライターを発注したのち、船に乗ってアメリカ合衆国から日本に帰る間に、山下の病は悪化した。1923年2月に日本についてただちに入院し、手術を受けたが、医師に余命3か月と診断された。兵庫県 武庫郡 精道村(現、芦屋市)の自宅に帰り、1923年4月7日、胃癌のため死去した。享年は(数え年で)53であった。最初のカナ文字タイプライターは1923年5月に日本に届いた。 1924年に鶴見総持寺に建てられた山下の石碑は、平尾によって設計された。この石碑には左横書きのカタカナで「ヤマシタ ヨシタロゥ」と刻まれている。
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