バルジの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/25 17:03 UTC 版)
概要
北フランスへのノルマンディー上陸作戦を成功させた連合軍はドイツ軍を駆逐しつつ東進し、ベルギーのアントワープ港を補給拠点として兵站を支えた。ドイツ軍はアルデンヌから北西へ進撃してアントワープを占領することを企図し、1944年12月16日、3個軍をもってアメリカ軍を奇襲した。アメリカ軍はアルデンヌでのドイツ軍の攻撃を予期しなかったため、アルデンヌには実戦経験が皆無か、以前の戦闘で消耗していた師団ばかりが配置されていた。そのうえ悪天候により航空支援も受けられず、緒戦では多くの戦線でドイツ軍の突破を許した。しかしながらアメリカ軍は奇襲による衝撃から立ち直り、増援部隊の到着もあって防衛線を着々と固めた。ドイツ軍は計画通りの進撃ができず一部部隊のみが突出し、戦線は「バルジ」(「突出部」の意)を形成する[1]。重要拠点バストーニュ攻略に失敗したドイツ軍は12月25日には最大でもミューズ川手前で進撃停止し、翌年1945年には連合軍による反撃も強化されドイツ軍は敗走。一時的に連合軍の戦略に狂いを生じさせたものの、貴重な戦力や物資を消耗するなど高い代償を支払うこととなる[4]。
名称
アメリカ合衆国をはじめとする欧米では、ドイツ軍の突出した戦線「バルジ」にちなんで「バルジの戦い」(Battle of the Bulge)という名称が主に使われる。また、作戦指揮した西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の名前をとって「ルントシュテット攻勢」(Rundstedt Offensive)とも呼ばれる[5]。
ドイツにおける正式な作戦名としては、連合軍に防衛的な作戦と誤認させるため名づけられた「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)という作戦名が有名であるが、作戦開始直前には「秋霧作戦」(Unternehmen Herbstnebel)という正式作戦名となっている[6]。
そのほか「アルデンヌの戦い」(Battle of the Ardennes)という名称もある。
日本では「バルジの戦い」が一般的だが「バルジ大作戦」とする資料も存在する。この戦いを描いた戦争映画の邦題は『バルジ大作戦』とされた。
以下、断りがなければ戦闘名は全て「バルジの戦い」とする。
戦闘前の状況
連合軍進撃の停滞
1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦を成功させたアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合軍はフランスで進撃を続け、8月25日には首都パリの解放が実現した。その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍進撃は補給線延長を招いたため連合軍進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。9月4日にはイギリス軍が良好な港湾があるベルギーのアントワープを解放したものの、海とアントワープ間の水路両岸のドイツ軍陣地掃討が難航しており、港湾を補給拠点として使用できていなかった。この状況を打開するため、または「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ために9月17日からオランダへの侵攻作戦、いわゆるマーケット・ガーデン作戦が開始された。だが、ドイツ軍の能力を軽視した作戦計画は作戦進行とともに次々と欠陥を露呈、本作戦は多くの犠牲とともに失敗した。
マーケット・ガーデン作戦失敗で、1944年中の終戦は困難となり、冬期間の連合軍の補給のため、アントワープを補給港として使用する必要に迫られたSHAEF司令官ドワイト・アイゼンハワー大将は、第21軍集団司令官のバーナード・モントゴメリー大将にアントワープ周辺のドイツ軍掃討を命じた(スヘルデの戦い)。1か月の激戦の後、11月8日にはドイツ軍掃討は完了したが、水路の機雷除去など港湾整備に手間取り、アントワープが補給港として利用できるようになったのは11月末であった。その間、連合軍はノルマンディから補給品を「レッド・ボール・エクスプレス」と名付けた大量のトラックによるピストン輸送や輸送機による緊急空輸で前線に送り届けていたが、この輸送量では全面攻勢はできず、当面の需要すら十分には賄えていなかった。ドイツ軍が守るジークフリート線に近づくにつれ、連合軍は軍需物資不足に悩まされ、武器弾薬はおろか、多くの兵士の戦闘服はノルマンディ上陸時の軽装服であり、気温が下がり雪が降っても、冬期戦闘服はほとんど支給されていなかった[7]。
軍需物資の慢性的不足に加え、ジークフリート線に近づくにつれドイツ軍の抵抗も頑強になっており、1944年9月から10月にかけ連合軍進撃は徐々に停滞してしまった。連合軍は限られた物資で限定的攻勢をせざるを得ず、10月1日にはドイツ本土の古都アーヘンに進攻(アーヘンの戦い)、10月22日にはアーヘンを攻略した。11月になるとアントワープ使用の目途も立ち、また補給隊や工兵隊の休みない努力によって補給状況に改善の兆しが見え、連合軍はいよいよ本格的攻勢準備に着手する。その準備として、大攻勢の障害となるドイツ・ベルギー国境にあるヒュルトゲンの森に展開するドイツ軍撃破のため、アメリカ軍は単独で大規模攻撃を行うが、地形を利用したドイツ軍の防衛は頑強でアメリカ軍は大苦戦を強いられた(ヒュルトゲンの森の戦い)[8]。
アメリカ軍はヒュルトゲンの森に次から次へ新しい増援を送り込まねばならなくなり、大損害を受けた部隊は休息や再編成のためアルデンヌに送られた。アルデンヌ一帯は両軍ともに積極的な作戦行動が行われていなかったことから“幽霊戦線(ゴーストフロント)”と呼ばれ、アメリカ軍は再編途中や休息中の部隊を配置しており、兵士らの保養のために映画館や、マディソン・スクエア・ガーデンという名称をつけた体育館などのスポーツ施設や、泥風呂につかれるスパなどといった娯楽施設まで設置されていた。ドイツ軍の侵攻直前にはハリウッド女優のマレーネ・ディートリヒも慰問のために訪れている[9]。軍紀も緩み、兵士たちは地元女性とデートしたり[10]、Kレーションに飽きたアメリカ兵が、L-4 グラスホッパーに短機関銃を持って乗り込んで、低空飛行してバーベキュー用野豚狩りをしているという森林監視員からの苦情が第12軍集団司令官のオマール・ブラッドレーに届くほどであった[11]。
また、太平洋戦域の戦況もヨーロッパ戦線に大きな影響を及ぼしていた。従来の連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、アメリカ陸軍の大物ダグラス・マッカーサー元帥やアメリカ海軍が、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、アメリカ軍は太平洋上において大規模な二方面作戦を展開していた[12]。さらにマッカーサーは、フィリピンの戦い (1941-1942年)での汚名を返上すべく、フィリピンの奪還を強硬に主張していた。フィリピンには日本軍が大兵力を配置しており、その攻略には太平洋戦線過去最高規模の兵力が必要であったが、ナチス・ドイツ打倒の優先を主張していた大英帝国首相ウィンストン・チャーチルも、この頃にはヨーロッパの戦争は最終段階に入っていると考えており、太平洋方面の戦況に大きな関心を寄せていた[13]。そのような状況で、マッカーサーはルーズベルトにフィリピン奪還を認めさせると、政治力を駆使して174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備したが、この大兵力のなかには、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれていた[14]。アイゼンハワーらヨーロッパ戦線の司令官たちは、太平洋が優先されて、次第に減少していく増援や補給を憂慮する事態と陥っていたとき、ドイツ軍の反撃が開始されることとなった[15]。
ヒトラーの「最後の賭け」
かねてよりドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を夢想していた。ノルマンディーに上陸した連合軍は急進撃していたが、ヒトラーは、いつかは連合軍補給路が伸びきって、休息や再編成のため進撃停止しなければいけなくなると予想しており、その進軍停滞に乗じて防衛を固めても、守っているだけでは敵軍すべてをいつまでも防ぎきれるものではなく、むしろその時間的余裕を利用して大反攻の準備をすべきと決意した[16]。ヒトラーは大反攻計画を1944年7月末より検討し始めたが、その直前に発生したヒトラー暗殺未遂事件によって、国防軍への信頼感を失っており、この大反攻計画をごく一部の腹心の協力を得ながら、ヒトラー自らが立案、作戦指揮をしようと考えていた。ヒトラーは、フランスを進撃してくる連合軍はあくまでも寄合所帯であって、ドイツ軍が反攻してきても、その対応についてはアメリカ本国やイギリス本国との難しい調整が必要となって迅速な対応ができず、その間にドイツ軍は勝利の道を邁進できると判断していたが、これはヒトラーの認識違いで、連合軍はSHAEF司令官のアイゼンハワーが連合軍各国政府から全権を委任され迅速な対応ができる体制となっており、このヒトラーの誤認識がのちの作戦展開に大きな影響を及ぼすこととなる[17]。
ヒトラーは作戦地域をアルデンヌに決定した。この地域はナチス・ドイツのフランス侵攻でドイツ軍が進攻した由緒あるルートで、なおかつ4年間の占領期間でドイツ軍は戦車などの軍用車両が急行できる道路を隅々まで熟知しており、連合軍に対し圧倒的に有利と考えたからであった[17]。ヒトラーの作戦計画は、アルデンヌで順調な進撃で自信過剰となっている連合軍の隙をつき、スピードに物を言わせて攻め立てて、一気にアントワープを奪還するというものであった[11]。アントワープはスヘルデの戦いの後に急速に整備され、ヨーロッパ戦線における連合軍の重要な補給港となっており、奪還することにより連合軍部隊の補給路を遮断し[18]、その後に連合軍のアメリカ、イギリス、カナダ、フランス各軍を個別に撃破しようという、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥がナチス・ドイツのフランス侵攻のさいに行ったマンシュタイン・プランの縮小版のような計画であり、ヒトラーは1940年の怒涛の電撃戦による快進撃をもう一度味わいたいと願い、さらには、連合軍を海に追い落とす「第二のダンケルク」の再現まで夢想していた[11]。ヒトラーは短期且つ圧倒的な勝利によって、連合国の少なくとも1か国を戦争から脱落させ、一時的に強化された立場をもって、有利な講和に持ち込み[6]、その後に全戦力を東部戦線に投入してソ連軍を粉砕できると考えていた[17]。
1944年9月16日、ヒトラーはヴィルヘルム・カイテル元帥、アルフレート・ヨードル上級大将、ヴェルナー・クライペ航空兵大将、ハインツ・グデーリアン上級大将の4人を招集すると、「わたしはいま重大な決心をした。私は攻勢に転じるつもりだ」「アルデンヌ地域を突破して、目標はアントワープ」とついに極秘裏に検討してきた作戦計画を打ち明けた。グーデリアンはヒトラーの作戦計画を聞くと、東部戦線から戦力を引き抜けば、同戦線に惨事をもたらすと抗議したが、ヒトラーはその発言を一蹴した。クライペは連合軍の空からの攻撃に現状のドイツ空軍では対抗できないと懸念を示したが、ヒトラーは作戦開始は11月であり、例年の悪天候で連合軍の航空機はまともに出撃できないとして、その懸念も一蹴している。ヒトラーはこの作戦指揮を西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥にとらせるとも述べた。ルントシュテットはフランスでの敗戦の責任をとらされて、一旦は西方総軍司令官を解任されていたが、ヒトラーはこの大作戦の指揮をとることができるのはルントシュテットの他にはいないと考えており、9月初めに元の地位に復帰させていた[17]。
しかし、ルントシュテット自身は、ヒトラーの計画を現実離れしていると考えて作戦に反対しており、より実現性の高い、アメリカ軍のアーヘン突出部を粉砕するといった限定的な反攻を計画しその準備も進めていたが、結局は、ヒトラーの命令通り、B軍集団のヴァルター・モーデル元帥とともに「ラインの守り作戦」の指揮をとることなった。ルントシュテットは作戦計画を聞くと「アントワープだって?とんでもない、もしミューズ川に到達できたらひざまずいて神に感謝すべき」と酷評している[19]。作戦はヒトラーが細部に至るまで一部の腹心と入念に練り上げたものであったが、のちに連合軍がこの作戦をあたかも自分が発案したかのように「ルントシュテット攻勢」と呼称していると知って立腹している[5]。
最大の問題は戦力の準備であり、ヒトラーは作戦計画を国防軍最高司令部にも明かすと、「11月には攻勢を始められるように準備せよ。1~2か月のうちに25個師団を西部戦線に移動せよ」という命令を出し、国防軍最高司令部の将軍たちを驚かせている[20]。ドイツ軍は1944年8月の1か月だけでも468,000人の兵士が死傷するなど、これまでの戦争で既に336万人の兵士を失っており、ドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど小規模化していたので、ヒトラーの命令は実現不可能と思われていた。ヒトラーはこの戦力不足を解消するため、徴兵年齢の拡大、後方支援要員を戦闘部隊に編入するなどの策を講じて兵員を増員し、また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも、工場労働者の労働時間の延長や、政府機関要員を工場労働に従事させるなどの強引とも言える戦争指導によって、軍需生産は増大して空前の生産記録を達成し、ヒトラーの命令通り11月中には戦力の準備には目途をつけることができている[21]。
作戦は当初計画では11月中の開始予定であったが、戦力の準備が遅延したことや、補給の問題も解決せずに2週間遅延していた[22]。ヒトラーは作戦準備の遅さに激昂し、最終的な作戦開始を12月16日の05:30と決定して、各指揮官に徹底した[19]。ヒトラーは作戦に参加する戦力として30個師団の投入を命じたが、実際に準備できたのは作戦に参加する精鋭約20個師団と予備5個師団の計25個師団となった[22]。この時期の多くのドイツ軍師団はこれまでの激戦での損失で多くが定員割れを起こしていたが、作戦に投入される師団には優先的に補充が行われ、ノルマンディで可動戦車3輌にまでなっていた第2装甲師団(英語版) は、作戦開始には定数の14,000人の兵力となっている[23]。主力戦車であったV号戦車パンターは、作戦に投入される8個戦車連隊の9月時点での配備数は合計でわずか62輌、戦車兵の充足率も55%に過ぎなかったが、12月16日の作戦開始時点では合計416輌、戦車兵の充足率も101%に回復していた[24]。
また、作戦の主力となる第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」のパイパー戦闘団には新鋭のティーガーII戦車が約20輌も配備された。練度の低い新編成の国民擲弾兵師団(en)もかき集めて投入されたが、兵員不足を補うため、通常の編成よりは自動火器(機関銃や短機関銃)の装備率が上げられていた。なかには第26国民擲弾兵師団 のように歴戦の歩兵師団を改編し、17,000人と通常の師団よりは多い兵員を割り当てられ、StG44アサルトライフルやパンツァーファウストなどの新兵器もふんだんに配備された精鋭師団も含まれていた[23]。ドイツ軍の新兵器のなかではネーベルヴェルファーがその甲高い発射音でアメリカ兵に「金切声のミーミー」というあだ名を付けられて恐れられた[25]。軍需燃料の不足も深刻さを増していたが、それまで備蓄していた予備燃料400万ガロン(1,500万リットル)を切り崩す許可をヒトラーが出した。しかしそれでも燃料不足が懸念されていた。
計画の立案
9月中旬までに、アルデンヌの森を通って攻撃を行うことが決定された。計画としては、連合軍の防衛線に猛烈な準備砲撃を浴びせたのち、選抜された部隊が12か所で連合軍の防衛線を突破、その突破口から戦車や装甲擲弾兵が西方のミューズ川に向けて突進し、連合軍が防御を固める前にミューズ川の橋梁を確保して渡河することを作戦の第1段階とし、その後にアントワープとブリュッセルに進撃して、ヨーロッパ戦線の連合軍を分断しようというのが作戦の第2段階とされた[19]。第1段階のミューズ川への迅速な進撃を実現するためには、一刻も早く交通の要衝を確保して、ドイツ軍の補給路を確保しつつ、連合軍の増援部隊を阻止する必要があった。アルデンヌで道路が集中する交通の要衝はマルメディ、サン・ヴィット、ウーファリズ、バストーニュの4か所であったが、この全部を攻勢2日目までに確保することが求められていた。この中でバストーニュが最も遠方にあったが、東西の道路の中心部であり最重要攻略目標となった。作戦計画では「いかなる犠牲をはらっても」攻勢2日目までには必ず確保し、どんな反撃に対しても絶対に固守しなければならないとされていた[26]。
作戦は連合軍諜報部にラインラントの防御作戦と誤認させるため「ラインの守り(Wacht am Rhein)」 と名付けられた。これはドイツの歌から取られた名称でもあったが、作戦開始直前に「秋霧作戦(Unternehmen Herbstnebel)」という正式名称に改められた[6]。
ドイツ軍の編成
ヨーゼフ・ディートリヒの率いる第6SS装甲軍は、1944年10月26日に新しく編成された。同軍は武装親衛隊の精鋭師団、第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」および第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」を組み込んだ。彼らは主要攻撃部隊として北部の攻撃を行い、その目標はアントワープの確保であった[27]。
- 第6SS装甲軍
- 軍直属部隊
- 第653重戦車駆逐大隊
- 第217突撃戦車大隊
- 第394、667、902突撃砲大隊
- 第741戦車猟兵大隊
- 第1098、1110、1120、重榴弾砲中隊
- 第428重迫撃砲中隊
- 第1123K-3中隊
- 第2高射砲師団 (第41、43連隊)
- 降下猟兵大隊「フォン・デア・ハイテ」(フォン・デア・ハイテ戦闘団)
- 第4トート旅団
- 第1SS装甲軍団
- 第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ SS アドルフ・ヒトラー」
- 第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」
- 第12国民擲弾兵師団
- 第277国民擲弾兵師団
- 第3降下猟兵師団
- 第150SS装甲旅団(指揮官:オットー・スコルツェニーSS中佐)
- 軍団直属部隊
- 第4国民発煙旅団 (第51、53発煙連隊)
- 第9国民発煙旅団 (第14、54発煙連隊)
- 第388国民砲兵軍団
- 第402国民砲兵軍団
- 第501SS砲兵大隊
- 第501SS砲兵観測大隊
- 第2SS装甲軍団
- 第67軍団
- 第3装甲擲弾兵師団
- 第246国民擲弾兵師団
- 第272国民擲弾兵師団
- 第326国民擲弾兵師団
- 軍直属部隊
ハッソ・フォン・マントイフェルの率いる第5装甲軍は、中央攻撃ルートに割り当てられブリュッセルの確保が目的となった。しかし、ミューズ川への最短ルートは第6SS装甲軍の戦区に指定されているため、最も距離のあるルートを進撃せざるを得ず、進撃のスピードを求められていた[28]。
- 第5装甲軍
- 軍直属部隊
- 第19高射砲旅団
- 第207、600工兵大隊
- 第653重戦車駆逐大隊
- 第669東方大隊
- 第638、1094、1095重砲兵中隊
- 第25/975要塞砲兵大隊
- 第1099、1119、1121重迫撃砲中隊
- 第3トート旅団
- 第39装甲軍団
- 第47装甲軍団
- 第58装甲軍団
- 第116装甲師団
- 第560国民擲弾兵師団
- 第66軍団
- 第18国民擲弾兵師団
- 第62国民擲弾兵師団
- 軍直属部隊
エーリッヒ・ブランデンベルガーの率いる第7軍は、側面の支援と南部の攻撃に割り当てられた。
- 第7軍
- 軍直属部隊
- 第657、668重戦車大隊
- 第501要塞対戦車大隊
- 第47工兵大隊
- 第1092、1093、1124、1125重榴弾砲中隊
- 第660重砲兵中隊
- 第1029、1039、1122重迫撃砲中隊
- 第999懲罰大隊
- 第44機関銃大隊
- 第15高射砲連隊
- 第1トート旅団
- 第53軍団
- 第80軍団
- 第212国民擲弾兵師団
- 第276国民擲弾兵師団
- 第340国民擲弾兵師団
- 第85軍団
- 第5降下猟兵師団
- 第352国民擲弾兵師団
- 第79国民擲弾兵師団
- 軍直属部隊
第15軍は再編成されたばかりで、最北部に配置された。任務はその地域のアメリカ軍勢力を固定し、攻撃に最適な状況を作り出すことであった。
- 第15軍(1944年12月)
- 軍直属部隊
- 第10SS装甲師団「フルンツベルク」
- 第176歩兵師団
- 第183国民擲弾兵師団
- 第59歩兵師団
- 第81軍団
- 第74軍団
- 第85歩兵師団
- 第272国民擲弾兵師団
- 第326国民擲弾兵師団
- 第67軍団
- 第277国民擲弾兵師団
- 第246国民擲弾兵師団
- 第89歩兵師団
- 第3降下猟兵師団
- 軍直属部隊
- 第15軍(1945年1月)
- 軍直属部隊
- 第27SS義勇擲弾兵師団「ランゲマルク」
- 第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」
- 第12国民擲弾兵師団
- 第12SS装甲軍団
- 第81軍団
- 第74軍団
- 第272国民擲弾兵師団
- 第62国民擲弾兵師団
- 軍直属部隊
ドイツ空軍からは以下の部隊が参加した。
- 第2戦闘機軍団
- 第3高射砲大隊
攻撃の成功には三つの点が要求されると考えられた。
- 攻撃は完全な奇襲であること。
- 悪天候であること。連合軍の制空権を無効にし、補給路が確保できること。時期は冬季のしかも豪雪期に設定された。
- 迅速な進撃。モーデルはミューズ川に4日で到達しなければいけないと考えた。
ドイツ軍の作戦準備
ドイツ軍の作戦準備は戦史上でも稀なほど極秘裏に進められた。作戦を知っているのはヒトラー以下一部の高級軍人に限られ、機密が漏洩した場合は命をもって贖うと宣誓させられた。作戦区域内で素性の怪しい住民は事前に移住させられ、作戦に参加予定の部隊の兵士で出自の怪しい者は転属させられる徹底ぶりであった[29]。作戦に参加予定の部隊はオーストリア、東プロイセン、デンマークといった遠隔地から集めねばならず、部隊の移動が最も大きな問題となったが、主に鉄道を使用してこの問題を解決した。連合軍の航空機が跳梁している日中には、部隊を乗せた列車をトンネルや森の中に隠しておき、夜間になって素早く目的地に移動して部隊を降ろし、夜明け前には次の積み荷のために指定場所に向かうといったことを繰り返した。鉄道の拠点には空襲警戒所を多数設置し、連合軍の航空機を発見すると素早く列車をトンネルなどに潜り込ませた。9月から11月にかけてドイツ軍が鉄道で輸送した兵器、物資、燃料などは延べ貨車10,000両分の144,735トンにも上ったのに対して、この間に連合軍の航空攻撃で失った列車はわずか23両だけであった[30]。また、鉄道輸送された部隊はそのまま攻撃位置に直行することはなく、攻撃開始直前に攻撃開始地点に移動する手筈となっていた[29]。
連合軍はドイツ軍のエニグマによって暗号化された無線通信を傍受し、それを暗号解読班(アメリカ軍はマジック、イギリス軍はウルトラ)が解読することによって、諜報作戦をほとんど成功させていた。この暗号解読によりドイツ軍の機密情報をいくども取得してきた連合軍の上級司令部は、情報収集や情報分析を暗号解読に大きく依存していたが、ドイツ軍は作戦開始の3週間前から無線の利用を厳しく制限し、作戦計画については、命令文を暗号通信で送信するのではなく、高級将校が厳重に管理した命令書を持ち運び、物理的に伝達先の高級将校に手渡すといった、原始的ながら徹底した機密保持策を行っていた。また、ドイツ国内ではこのような命令が電話とテレプリンターによってやり取りされており、ドイツ軍の無線の沈黙により、情報収集を暗号無線の解読に頼り切っていた連合軍はドイツ軍の正確な意図を分析しかねていた[31]。
連合軍上級司令部が暗号無線解読に偏重するなかで、敵陣深くに侵入し多くの捕虜を獲得してこれを尋問して敵の意図を探るといった、従来型の威力偵察が軽視されるようになっていた。前線ではドイツ軍の活発的な動きに関する情報が上級司令部に寄せられ、ドイツ軍捕虜からも貴重な情報が得られており、そのなかには、ドイツ軍の極秘作戦であるグライフ作戦の概要の情報まであった[32]。アメリカ第1軍司令部の情報参謀ベンジャミン・ディクソン大佐は、押収したドイツ軍の秘密文書や、周辺の航空偵察写真、それに従来型の威力偵察による情報などを総合的に分析して「フォン・ルントシュテットは兵力を巧みに温存しており、しかるべきときに、しかるべき場所で、空軍、装甲兵力、歩兵、秘密兵器による集中的な反撃に出る能力を有している」「反撃の場所は、おそらくドイツ軍が幾度もフランス侵入への通路として使用したアルデンヌ近辺だろう」と、ドイツ側の意図をほぼ完璧に看破していたが、その分析が活かされることはなかった[注釈 1][33]。ディクソンらの警告の他にも、偵察機がティーガーIを輸送する貨車や長い病院列車などを発見していたが、それはアルデンヌではなく他の戦線への移動と判断していた。航空機による偵察については、悪天候が続いて徹底した偵察ができなかったこともドイツ軍に幸いした。また、第6SS装甲軍と第5装甲軍が極秘裏にアルデンヌに移動していたのに、連合軍は両軍団がどの位置にいるのかも掴んでおらず、また位置を特定するために何の対策も講じなかった[34]。
アメリカ軍は第1軍情報参謀のディクソンらの警告やドイツ軍増強の明らかな兆候にもかかわらず、アルデンヌ方面の弱体な部隊の交代、もしくは強化を行わず放置した。アルデンヌ地区に展開しているアメリカ第8軍団の司令官トロイ・H・ミドルトン少将は「アルデンヌ地区は広大で、我が軍団は135㎞にわたって薄く長く展開しているのが現状」とオマール・ブラッドレー中将に警告したが、軍司令部では既にドイツ軍は相当に弱体化しており、もはや脅威とはなりえないという楽観論が主流となっており、ブラッドレーは「心配するなトロイ、連中があそこを抜けてくることは金輪際ないから」と回答している[35]。第8軍団が属する第1軍の司令部は保養地として有名だったスパに置かれており、司令官のコートニー・ホッジス中将ら司令部幕僚は、スパの中心にある高級ホテルブリタニックホテルに滞在していたが、これまで野営の幕舎生活であったのに、一転して優雅で快適な生活となったため警戒心が緩んでいたのも分析が楽観的となった一因との指摘もある[36]。
緊張感のない司令部のなかで、ドイツ側の作戦を看破していたディクソンは「多くの捕虜はいま12月17日から25日までの間に攻撃があるだろうと述べ、中には“総統へのクリスマスプレゼントとしてアーヘンの奪還”の約束を口にしている」との具体的な警告も行ったが、ドイツ軍の攻撃開始時までこのディクソンの警告が軍内に広まることはなかった[37]、ミドルトンの指揮下にあった歩兵師団は4個師団であったが、そのなかの第99歩兵師団と第106歩兵師団はアメリカ本土から到着したばかりで実戦経験はほとんどなかった。この頃にアメリカ本土から戦地に送られた将兵たちは、激戦が続く日本軍相手の太平洋戦域に派遣されるのを嫌がり、自分たちの部隊が西部戦線に派遣されるとわかると、全員が歓声をあげながら喜ぶといった状況になっており、この両師団の多くの将兵も自分たちが激戦に巻き込まれるとは考えていなかった[38]。また、ヒュルトゲンの森で大損害を受けて休息・再編成中であった第28歩兵師団や第4歩兵師団の兵士たちも、状況の許す限り戦争のことは忘れて、与えられる愉しみは存分に味わいたいという考えであった[37]。
そして、12月12日にヒトラーによる最終集結命令が下され、各攻撃参加部隊は前線から20㎞離れた場所から、各攻撃開始地点に移動を開始した。移動の物音を消すために、車両の車輪や軍馬の蹄は藁で包み、地上のエンジン音を消すために航空機が集結地上空で低空飛行を繰り返して、航空機の騒音によって欺瞞を図った。12月15日の夜には兵員30万名、砲1,900門、戦車と突撃砲970輌が攻撃開始地点への移動を完了していたが、連合軍はそれにほとんど気が付いていなかった[39]。作戦に反対していた国防軍首脳たちも、思いのほか順調に進んだ作戦準備で自信を深めて、ルントシュテットは「西部戦線の兵士らに告ぐ。諸君らに重大な時がやってきた。アメリカ、イギリス軍に対して攻勢を開始するのである。各人期するところがあると思う。我々はあらゆるものをこれに賭ける。母国のために、総統のために、超人的な目標に向かってすべてを捧げる崇高な義務を、諸君らは負っているのである」[39]、モーデルは「報復の剣を創造した総統と祖国とを、我々は決して失望させない。ロイテンの戦いの勝利の精神を持って、進め」と全軍に対して訓示した[40]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g ボールドウィン 1967, p. 402
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