バルシュ・マンチョ
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バルシュ・マンチョ(Barış Manço[1]、1943年1月2日 - 1999年1月31日)は、トルコのロック歌手、作曲家、テレビプロデューサー[2]。 彼はおよそ200曲を作曲や作詞をし、そのうちいくつかは英語、日本語、ギリシア語、イタリア語、ブルガリア語、ルーマニア語、ペルシャ語、ウルドゥー語、アラビア語に翻訳されている[3]。現代トルコでは国民的ミュージシャンと讃えられ1999年に心臓発作で急逝しているが、トルコで未だ根強い人気のある有名人、スターの一人である。
- ^ ヨーロッパのアルバムでは「Baris Mancho」とも書かれる。
- ^ Variety's Film Reviews 1985-1986 (Vol 19) by R R Bowker Publishing, ISBN 978-0-8352-2799-5
- ^ “Baris Manco” (英語). Light Millennium. 2011年9月29日閲覧。
- ^ 1960年と1980年9月12日クーデターに軍事クーデターが発生しキプロス問題対応などで軍部と政府の意見対応が異なり対立しバルシュ・マンチョが世を去った1999年に拘束されたアブドゥッラー・オジャランは変化した世界情勢の隙から軍部を出し抜き外交で追い詰めた政府側穏健策の勝利となった。
- ^ 1980年代の発言とされる。表現引用はケマル・アタテュルクが発言演説で繰り返したとされる文言「我々はトルコ人以外の何ものでもない」に由来する。
- ^ 国外マスメディア、応答に、咄嗟思いつきから使用したトルコリラ紙幣は、この楽曲の制作素となった。トルコ国内各地の名所名跡や旧跡の名を詞に取り上げている。
- ^ 邸宅のあるモダ地区は、地元市民にとっては高級住宅街の認識で、住人達の庭仕事(ガーデニング)や洒落たカフェなどが知られていた。2014年現在、繁華街が近い地の利から外人向小規模のホテル、レストランやカフェが増えたが以前の落ち着いた住宅街の趣は大きく変わっていない。
- ^ 1998年頃。
- ^ 何人かの日本人が同様の歓迎を受けている。近所以外に中心街などで初対面を果たしその場で約束をして後日オフ時間に訪問など。
- ^ 「ユセフカミルパシャ(Yusuf Kâmil Paşa[:tr)」通りの由来となった人物。
- ^ [1]
- ^ 池田大作を国際親善や文化活動の功労者と認める発言は多く残されている。
- ^ 語学留学からモダ地区に下宿する日本人女性と、旅行で訪ねた友人がその周遊寄り道に、マンチョ邸前に至り、偶然バルシュ・マンチョ本人と出会い、その場から邸宅内へお茶に招かれた。談話中、室内のいくつかのトロフィから取り出して、「これは友人池田大作から受け取った。彼、池田は日本の友人の一人だよ。」と話している(1996年の体験談)。
- 1 バルシュ・マンチョとは
- 2 バルシュ・マンチョの概要
- 3 ディスコグラフィ
- 4 脚注
- バルシュ・マンチョのページへのリンク