ショルンドルフ 歴史

ショルンドルフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 01:49 UTC 版)

歴史

古代

ショルンドルフ地域の最も古い定住跡は中石器時代のものであるが、新石器時代の痕跡はそれよりもかなり多い。これとは対照的に、金属器時代(銅器時代青銅器時代鉄器時代)の集落に関する痕跡はほとんど見られない[5]

ローマ時代

ローマ時代になると考古学上の出土品は広い範囲で見つかっている。皇帝アントニヌス・ピウスの下、2世紀半ばからリーメスが前進し、前線基地が設けられた(フォルデラー・リーメス)。

ローマ帝国の国境線は、ネッカーオーデンヴァルト線から東に移動し、ロルヒ城砦からまっすぐにマイン川沿いのミルテンベルクまでまっすぐに伸びるオーバーゲルマニッシャー・リーメスの新たな部分が築かれた[6]。同じ頃ドナウリーメス、すなわちアルプスリーメスは北に移動し、ロルヒ城砦からアイニング城砦まで新しくレティシャー・リーメスが建設された。このリーメスはレーゲンスブルクのの直前でドナウリーメスに合流する。このリーメスの移動によって、レムスタールはオーバーゲルマニア属州(ゲルマニア・スペリオル)およびラエティア属州に組み込まれた。ローマの両属州の境界はロルヒ城砦の東を通っていた。

リーメスの移動に伴って新しい交易路が設けられ、あるいはローマ時代以前の街道が再整備された、カンシュタット城砦周辺もヴェルツハイム城砦やアーレン城砦と結ばれた[7]。この街道の、現在のショルンドルフ市にあたる付近では、ローマ時代からすでに多くの連絡路が設けられたが、その精確なコースについては、おおよそのことしか判っていない。

ショルンドルフにはおそらく、街道の交差点があり、それに面して宿場町が発展した。これは現在のショルンドルフの市域北端の、数多くの考古学的発掘現場で証明される[5]。また、ショルンバッハー通りからヴィラ・ルスティカドイツ語版英語版(ローマ人の荘園付き別荘)[8]、グラーフェンハルデからマイアメルクリウスの石板、ラムスバッハからメルクリウスの石像が出土している[9]

1950年代から市立博物館に収蔵されている出土品(4柱の神の石像)に近年新たな評価がなされた。それから導かれる推論は、現在のショルンドルフ=ノルトシュタット(北部地区)には、単なる宿場町だけではなく、「より大きな種類のローマ人入植地があった」というものである[10]

中世初期

ローマ時代の発掘地からやや西で、1955年頃、クリスタラーヴェークの工事によって、散乱した副葬品アレマン人の墓がみつかった。その一部はローマ時代の地層に入り込んでいた。年代測定によれば、これら出土品は 6世紀半ばから700年頃のものであった。全体としてはわずかな出土品に過ぎないが、南ドイツではユニークで、特別な考古学的興味を引くものであり、より多くの出土品に匹敵する。死者の高い地位を示すこれらの品物は、何世代にもわたってこの地に住む、社会的に階層化された多くの人口を持つ住民グループが前提となるものである。この墓地が属していた集落がこの周辺にあったに違いないと信じられているものの、それは発掘で証明されていない[5]。レムス川北岸の所在不明のこの中世初期集落は、おそらく、遅くとも8世紀前半に放棄されたのであろう。レムス川の氾濫による洪水がその原因であったかもしれない[11]。それ以前の研究では、レムス川中流域に -ingen-heim を末尾に持つ地名の集落がないことから、この地域で中世初期の集落が建設されたのは、フランク人の支配が強化された以後であるとされていた。ショルンドルフは、以前の研究では、7世紀から9世紀にこの地域で行われた昔の地域開発によって形成された集落であるとされていた。クリスタラーヴェークでの発掘によってこの時代推定は、6世紀にまで遡ると訂正された[5]

8世紀になるとレムス川南岸の氾濫地層の土地で集落が発展した。現在市教会が建っている付近の砂地の堆積層に新しい集落 uff dem Sand が形成され、これが中世のショルンドルフの原型となった[12][13]。年代推定のヒントは、教会の守護聖人であった。この教会は聖バジリデス、キリヌス、ナボール、ナザリウス、ケルススに捧げられている。これは教会の創設が765年以後であることを示唆している。

中世

この集落の名前の最初の文献記録は1235年である。ハインリヒ・フォン・ヴァルトハウゼンとその妻が終身の聖職禄と引き換えにウーアバッハとヒュルベンの所領をロルヒ修道院に寄進することを記した文書に、証人の1人として Dietericus de Shorendorf という名が記されているのである[14]。同じ人物が、1236年のアーデルベルク修道院の文書にも、やはり証人として登場する。この時は、ministerialis imperii、すなわち(シュタウフェン朝の)ミニステリアーレとして署名している[15]。役所(ミニステリアーレンブルク)としては、現在の城館の先行建築が用いられた。

ショルンドルフの市壁跡

その後フリードリヒ2世教皇ロンバルディア同盟との対立で疲弊したシュタウフェン家が次第に弱体化したことを、ヴュルテンベルク伯ウルリヒ1世ドイツ語版英語版(ウルリヒ寄進伯)は自家の勢力強化と拡大に利用した。ショルンドルフ集落も1250年頃にウルリヒによって獲得、あるいは強奪されたのだが、その詳細な経緯は判っていない。ウルリヒ伯の下、ミニステリアーレンブルクと関連して、初めて都市風の集落が形成された。ヴュルテンベルクの都市としての最初の文献記録は1262年になされている。これは、ウルリヒがアーデルベルク修道院にショルンドルフ市 (municipium nostrum Schorndorf) およびその周辺地域の非課税の通行を許可した文書である[16]。本市は、東に残るシュタウフェン領からヴュルテンベルクの主権を護るために、拡大され、防御を強化された。ショルンドルフの裁判所 (judices iurati) と市壁 (muros opidi) に関する最も古い記述は1299年になされた[17]。これによれば、市壁は最初マルクト広場と城館の間の、現在の旧市街の一部を囲むだけであった。西に位置する uff dem Sand 村は市壁外の衛星集落として存続していた[13]14世紀になると教会や教会広場を含む衛星都市が壁に囲まれて取り込まれていった。この、いわゆるウンターシュタット(下の街)と東のいわゆるオーバーシュタット(上の街)との間にあり、当時はまだ遺っていた堀は、14世紀から15世紀に埋め立てられ、マルクト広場が設けられた[13]

ヴュルテンベルク伯は、何代にもわたって攻撃的な拡張政策をとり、その拡大を阻止しようとする帝国帝国都市と繰り返し紛争を起こした。ショルンドルフ要塞はヴュルテンベルク領の東の入り口にあたり、繰り返し戦闘の舞台となった。

皇帝ハインリヒ7世ヴュルテンベルク伯エーバーハルトドイツ語版英語版に抵抗するいくつかの帝国都市と協力して帝国戦争(1311年 - 1312年)を遂行し、これによって伯はほとんどすべての所領を失った。ショルンドルフも包囲され、占領されて、帝国戦争においてエバーハルト伯の主要な敵であった帝国都市エスリンゲンに移譲された。皇帝の死後、ルートヴィヒ4世を王に選出し、対立王フリードリヒ美王を否定した1314年の選挙以降の政治状況は、総合的にヴュルテンベルクの敗北であった。エーバーハルト1世は、巧みに王と対立王の間で策略を用い、領土の損失を取り返しただけでなく、加増をも勝ち得た。これによりショルンドルフも再びヴュルテンベルク領となった。

1316年ルートヴィヒ4世王(バイエルン公ルートヴィヒとしても知られる)は、彼のいとこで敵対者であるフリードリヒ美王と戦うためにエスリンゲンへ向かう途上でショルンドルフの市壁前に陣を敷いたが[18]、街を攻撃することはなかった。

ヴュルテンベルク伯ウルリヒ3世

エーバーハルトの息子で後継者のヴュルテンベルク伯ウルリヒ3世ドイツ語版英語版は巧みな外交的手腕で、表面的に対立することなく両王の間を取り持った。フリードリヒの死後、彼はルートヴィヒによってニーダーシュヴァーベンの代官の地位を与えられた。賢明なウルリヒは、こうして得た帝国レベルの政治的な重み、地域同盟政策、彼の妻の嫁資と相続財産によって、戦うことなくヴュルテンベルク領を拡大することを可能にしたのであった。1336年、皇帝の地位に就いたルートヴィヒ4世から彼は、Vorstreiter(一番槍を担当する騎士)と Reichssturmfähnrich(帝国旗を掲げる旗手)の名誉ある役職を与えられた。この時代にはショルンドルフ要塞も戦闘抑止力を保持していた。

1347年にルートヴィヒ4世は改めてショルンドルフに滞在した。今回は平和な目的であった。数ヶ月後の1347年12月に彼の後継者であるカール4世王をこの街に迎えた。両者は、ショルンドルフで、この街の重要性を強調する文書を発行している[19][20]

ウルリヒ3世の息子、エーバーハルト2世伯ドイツ語版英語版(泣き言伯)とその共同統治者である弟のウルリヒ4世ドイツ語版英語版の統治下、ヴュルテンベルクと帝国都市および帝国との紛争が再燃した。伯兄弟は権力を濫用し、皇帝から与えられた代官職を利用して、その管轄地域に位置する帝国都市を抑圧した。不当な侵害や、平和政策の要望拒絶により、カール4世は帝国都市の要請を請けて、ヴュルテンベルクに対抗するための帝国軍を動員せざるを得なかった。皇帝はアーレンを経由してレムスタールを進軍し、ショルンドルフ近郊で戦闘状態に入った(1360年のショルンドルフの戦い)。異なるルートを通ったカールの新たな補給力が差をつけた。2人の伯兄弟はショルンドルフに退却し、カールの軍勢に包囲された。数日後、カールが周辺地域を荒らし回らせたため、ヴュルテンベルク伯は最終的に降伏し、街は皇帝軍に占領された。シュパイヤー司教ドイツ語版英語版アウクスブルク司教ドイツ語版英語版コンスタンツ司教ドイツ語版英語版の仲介で和平協定が結ばれ、カールは穏当な和平の条件に満足した[21]

エーバーハルト伯(泣き言伯)はヴュルテンベルク家の家督を孫のエーバーハルト3世ドイツ語版英語版(穏健伯)に譲った。その治世は、平和重視の近隣諸侯および帝国都市との同盟政策で特徴付けられる。この政策はショルンドルフにも大きな戦闘のない、平安な時代をもたらした。エーバーハルト3世の死後ショルンドルフは未亡人エリーザベトの隠居所として用いられた。彼女は1430年にここで亡くなった[22]

1431年にこの街は、王で後に皇帝となるジギスムントと教皇使節のジュリアン枢機卿をもてなした[23]

1442年のニュルティンゲン協定に基づくヴュルテンベルク伯領の分割。

ルートヴィヒ1世ドイツ語版英語版ウルリヒ5世ドイツ語版英語版の伯兄弟は1441年に領土を分割した。1441年4月23日付けの文書が遺されている。ウルリヒはシュトゥットガルトを宮廷都市として領邦の東部と北部を、ルートヴィヒはウーラハドイツ語版英語版を宮廷都市として領邦の西部と南部を得た。これによりショルンドルフはヴュルテンベルク=シュトゥットガルト伯領に属した。元々は4年の期限付きであったこの領土分割は、早くも1442年1月25日のニュルティンゲン協定によって無期限の分割が確定した。

ルートヴィヒ1世とウルリヒ5世は、1446年7月6日にショルンドルフで、マインツ大司教ディートリヒドイツ語版英語版プファルツ選帝侯ルートヴィヒ4世、オーストリア公アルブレヒト6世およびその他諸侯とともに、2年間で街道筋の強盗を撲滅する同盟を結成した[24]

1449年7月9日、ウルリヒ5世は宮中伯ルートヴィヒ4世の未亡人マルゲリータ・ディ・サヴォイアと結婚する際、彼はショルンドルフ市とアムト・ショルンドルフの収入を教え、「敬意を払うように」書き記した[23]。マルガレーテは実際にショルンドルフ市とアムト・ショルンドルフの本当の女領主として振る舞っていたことは、1454年に彼女がコンラート・フォン・ローマースハイムにショルンドルフ近郊のヴァイラー村をその居所として書き記していることに表れている[25]

1482年のミュンジンゲン条約と1492年のエスリンゲン条約によってエーバーハルト髭伯(ヴュルテンベルク=ウラッハ)とエーバーハルト6世伯(ヴュルテンベルク=シュトゥットガルト)は領邦分割を撤廃した。領邦の一体化とヴュルテンベルクにおける長男相続制が法的拘束力を持つことが確定し、ヴュルテンベルクがその後公爵に昇格する前提条件が成立した。1495年からショルンドルフは新たに創設されたヴュルテンベルク公領の一部となった。

アンドレアス・キーザーの1685年の森林登録簿に描かれたショルンドルフ

16世紀から17世紀

この街は、1634年にヴァルター・ブトラー率いる皇帝軍に占領された後、ほぼ完全に焼失した。1688年にショルンドルフの女性たちは、アナ・バーバラ・ヴァルヒの指揮の下、エゼキエル・デュ・マ将軍ドイツ語版英語版麾下のフランス軍による要塞奪取を阻止した。

18世紀から19世紀

アムト・ショルンドルフは、1759年にオーバーアムト(Oberamt)に昇格したが、1806年にいくつかの町村が隣接するアムトに移管され縮小された。1834年3月17日、高速で軽量なガソリンエンジンの発明者であるゴットリープ・ダイムラーがヘルガッセで誕生した。1861年にレムスタール鉄道が開通し、ショルンドルフに駅が開業した。

20世紀

1938年ヴュルテンベルク王国における郡の新設に伴い、オーバーアムトは廃止された。ショルンドルフ周辺地域はすべてヴァイブリンゲン郡に組み込まれた。

ナチ時代、政敵の追求が行われた。その対象には、社会民主主義の市議会議員でオーベラー・クーベルク強制収容所に収容されたゴットロープ・カム、SPD地区議長かつ労働組合役員で1945年にマウトハウゼン強制収容所で落命したハインリヒ・タルモン・グロースが含まれる。本市は通りに彼らの名をつけて追悼している[26]

ショルンドルフのブルクシュロス

1943年秋からブルクシュロス(城館)に、秘密政治警察アプヴェーアや、シュトゥットガルト・シュタポライストシュテレ(ゲシュタポ司令部)の V-ペルゾンの管理を担当する部門が入居した。また、ここではゲシュタポの図書館があった[27]

第二次世界大戦末期の数ヶ月間、レムスバッハ鉄道のショルンドルフ区間は、この重要な鉄道を使用不能にすることを目的とした連合軍の爆撃目標に繰り返しなった。この期間にショルンドルフ付近では、シュトゥットガルト方面に向かう旅客列車に対してアメリカ軍の低空飛行射撃が行われ、これにより運転士ボイラーマンが死亡した[28]

1945年の終戦直前にアメリカ軍がショルンドルフの門前に進軍したが、地元の国防連合はこの街を防衛することを決めた。しかし最終的には、後にこの街の名誉市民となるヴァルター・アルノルトが、進軍してきたアメリカ軍に抵抗することなくこの街を明け渡した。これによりショルンドルフの歴史的建造物は戦闘行為によって傷つけられることなく、今日まで保存されることとなった[29]

ショルンドルフの人口は1963年に2万人を超えた。これを承けて市の行政当局は大規模郡と市への昇格を申請し、バーデン=ヴュルテンベルク州政府は1967年1月1日の発効を決定した。

1972年から1975年までの間に隣接する7町村が合併し、1973年1月1日の郡の新設に伴い、レムス=ムル郡の一部となった。

21世紀

2005年にショルンドルフで、バーデン=ヴュルテンベルク州の郷土の日が開催された。

市町村合併

以下の町村がショルンドルフ市に合併した:

  • 1972年1月1日: ブールボルン[30]
  • 1973年1月1日: ミーデルスバッハ、シュリヒテン、ヴァイラー/レムス(1964年7月16日まではヴァイラーという名称であった)[30]
  • 1975年1月1日: ハウバースボルン、オーバーベルケン(ウンターベルケンを含む)、ショルンバッハ(マンスハウプテンを含む)[31]

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