オーストリア・マルクス主義 概要

オーストリア・マルクス主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 13:17 UTC 版)

概要

「オーストリア・マルクス主義」(オーストロ=マルクシズム)の名称は、第一次世界大戦前にアメリカ社会主義者ジャーナリストであるルイス・B・ブーディン(Louis B. Boudin)によって命名され、1890年代から1900年代にかけて理論誌『闘争』などを舞台に独自の思想集団を形成していったカール・レンナー、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディングオットー・バウアーら若いマルクス主義者によって担われた理論活動を意味するものであった。彼らの多くは哲学的には新カント派の影響を受け、政治的には社会民主主義左派に位置していた。

この潮流は、19世紀後半以降ドイツ社会民主主義陣営内部で台頭したベルンシュタイン修正主義と、ロシア革命以後のボリシェヴィズムロシア共産主義)の両者を批判しつつ、この2つの中間の立場(あるいはそのどちらでもない「第三の道」)を理論的に正当化し、両者の間に立って調停しようとする志向性を有していた。しかしその独特の民族理論(文化的自治論)に見られるように、彼らは政治分析において現実のオーストリア・ハンガリー二重帝国の意義を過小評価する側面があり、ヒルファーディングに代表される経済分析によって社会主義革命の必然性を理論づけながらも、革命思想としては客観主義・待機主義(日和見主義)的態度に陥る傾向を持っていたとされる[1]

理論

オーストリア・マルクス主義派(もしくは「オーストリア派のマルクス主義者」)と呼ばれた理論家集団は、哲学的には新カント主義マッハ主義、経済学上のオーストリア学派限界効用理論ベルンシュタイン修正主義理論、多民族国家であるオーストリア=ハンガリー二重帝国の民族問題など、同時代の理論的問題に取り組み、あるいはそれらの影響を受けた。彼らに共通する特色は、マルクス主義を完結した理論体系と見なすことを拒否する点にあった。また、狭義の政治理論に止まらず経済理論・心理学教育学社会学芸術文芸理論音楽社会学など多岐にわたるその活動は、両大戦間期の「赤いウィーン」の文化活動に体現されている[2]

哲学:新カント派哲学の導入

オーストリア・マルクス主義は必ずしも哲学の分野においては一枚岩ではなく、例えばM・アドラーやバウアー新カント派哲学に依拠して社会科学認識論的位置づけをめざしたのに対し、F・アドラーのように新カント主義に反対しマッハ主義の立場に立つ者もおり、バウアーものちにはマッハ主義に転向した。しかし、この集団のなかで特に哲学上の中心的存在となったのはM・アドラーであった。彼はカントの認識批判に基づいてマルクス主義から世界観的な要素を切り離し、それを「社会に関する一つの厳密な科学」としてとらえ直そうと努力しながらも、他方、カントの認識論・倫理学をもってマルクス主義を補完しようとしたベルンシュタイン派の修正主義に対しては批判を加えた[3]。この結果、カントの認識論に依拠しつつマルクスによって示された歴史図式を維持しようとするM・アドラーの立場は、一方では社会主義への発展を歴史的必然として受け入れながら、他方では一切の革命的行為を拒否する待機主義におちいったとされる[4]

経済学:金融資本論

経済学において、ヒルファーディングをはじめとするオーストリア・マルクス主義派はナショナリズム帝国主義の出現の重要な要素ととらえ、保護主義政策と領土拡張主義の関係を重視した。

1904年、オーストリア学派のベーム=バヴェルクが限界効用理論の立場からマルクス労働価値説を批判すると、ヒルファーディングはマルクスの労働価値説を資本主義社会の運動法則を発見するための武器と見なす立場から反論するとともに、あわせて労働価値説の観念性を主張しつつ限界効用学派との折衷をはかるベルンシュタイン派に対しても批判を行った(転形問題論争)。

続いてヒルファーディングは、資本主義の発展の新局面すなわち帝国主義化の理論的把握にむかい、帝国主義的展開を資本主義の発展能力の証明とみなし資本主義の崩壊からプロレタリア革命へという戦略を捨て議会を通じて漸進的改良を主張する修正主義を批判の対象とした。と同時に彼は、資本主義の新形態を単なる過渡的混乱とみなす「マルクス護教派」のカウツキーの理論も批判した。ヒルファーディングは主著『金融資本論』(1910年)において、眼前に展開する経済現象をマルクスの理論体系の内に取りこむことを試み、独占資本金融資本の形成という2つの現象形態をとる資本の集中過程を分析し、金融資本の支配をもって資本集中の最高度の形態と考えた。そしてこれが階級関係における生産の社会統制の確立をもたらし、経済の中央集権化・組織化・計画化など「組織」の面で社会主義を準備すると展望し、社会主義革命の必然性(および社会主義への平和的移行)を結論づけたのである。さらに後述するバウアーらの民族理論の影響を受け広域経済の優位を主張した。

民族理論:文化的自治論

二重帝国の民族分布(1911年)

19世紀末、オーストリア社会民主党は民族別に編成された党の連合組織となっており、その内部ではドイツ人社会主義者とチェコ人社会主義者との対立が深刻化していた。社会民主党は1899年ブリュン綱領で民族問題についての基本的見解を出したが、民族運動との妥協を経て、それは当初構想されていた「文化的自治」論ではなく、立法・行政単位としての自治的地域の上に「民主的な諸民族の連邦」を構想する内容となった。

このブリュン綱領をさらに理論的に深化させる仕事を担ったのが、レンナーバウアーであった。レンナーは『国家と国民』(1899年)・『国家をめぐるオーストリア諸国民の闘争』(1902年)、バウアーは『民族問題と社会民主主義』(1907年)・『バルカン戦争とドイツの世界政策』(1912年)などの著書においてこうした理論活動を展開した。彼らはブリュン綱領が示した属地的組織による民族自治というプランを基本的には承認しつつも、多民族のモザイク的混住が進んだ二重帝国においては、立法・行政上の自治を担う属地的組織のみでは少数民族の問題を解決するには不充分と考え、属人的組織による文化的自治というアイデアを導入した[5]。また同時に、この地域の社会主義革命にとってはドナウ経済圏が一体に保たれた方が有利であるという観点から、現在の二重帝国の枠組みを当面維持すべきであるとした。具体的には、政治・経済領域に関わる属地的民族別組織の「民族的地域」と文化的領域に関わる属人的民族組織の「民族共同体」(個人の申告により作成される民族台帳に基づき編成)を重ね合わせる「二次元の連邦」が提唱された。

ただし、これより先についてはレンナー・バウアー両者の理論には大きな隔たりが存在した。法学者であるレンナーは、複雑な民族問題を国制と法において理論化しようとした。そして帝国内諸民族間の関係を法制度的に調整することが、民族主義運動を背景とした政治的権力闘争を終結に導き、また帝国の多民族連邦組織への改組が将来の社会主義社会におけるモデルとなると展望したのである。これに対してバウアーは、社会学的視点から、より広い民族問題の理論的・歴史的分析に向かい民族の本質に迫ろうとした。そして二重帝国やバルカン半島における「歴史なき民の覚醒」を分析し、民族の解放が不可避の政治的・理論的課題であると考えた。さらに現在の資本主義社会では支配階級であるブルジョワ階級が民族文化を占有しており、社会主義社会による旧来の資本主義社会の解体を通じて、新たに諸民族の「文化共同体」が形成されうると考え階級闘争を重視する態度をとった。したがってレンナーは現実のオーストリア=ハンガリー二重帝国を地理的・経済的にみて必然的に一体のものとみなしたのに対し、バウアーは多民族国家オーストリアの存在は、階級闘争を阻害する民族対立を発生させない限りにおいてのみ是認される(つまり多民族国家は運動の目的ではなく運動の与件である)と考えたのである。第一次大戦期に至って、「中欧論」に影響されたレンナーが帝国の維持に固執する一方で、バウアーが従来の立場を修正して民族自決を許容し、二重帝国の解体を展望するところまで両者の懸隔は拡がった。

以上のようなオーストリア・マルクス主義派(およびオーストリア社会民主党)の民族理論の影響を特に強く受けたのが、同時期にロシア(およびその支配下にあったポーランドリトアニア)で活動しロシア社会民主労働党内の有力フラクションであったユダヤ人社会主義団体「ブンド」であった[6]。ブンドは1901年の第4回大会において「ユダヤ人の民族的独自性」「諸民族の非領域的連邦国家構想」を採択し、翌1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会において党組織の連邦化を主張し、多数派と衝突して大会をボイコットする事態になった。ブンドの主張はレーニンらによって厳しく批判され、ブンドに影響を与えたバウアーらオーストリア・マルクス主義派の民族理論も民族自決を否定する「文化的民族自治論」として、ルクセンブルクの民族理論ともどもレーニンやスターリンの批判対象となった。またバウアーが言語や地域の共通性を必ずしも民族の本質として重視せず、文化的要素に重きを置いた(そして属人的な文化的自治の根拠とした)ことは、言語を民族の本質とするカウツキーからの批判を受けた。

オーストリア・マルクス主義派の民族理論の同時代での影響については見解が分かれる。一つは、ブリュン綱領やこの理論の発展にもかかわらず、オーストリア社会民主党からのチェコ人組織(チェコ社会民主党)の分離独立(1911年)を回避できなかった点をもって、同党内部においてもこの理論の影響は限定的で、ドイツ系党員の民族主義的なドイツ人優位論や偏狭な「国際主義」(チェコ人など少数民族の運動への譲歩を拒むものであった)に対抗することができなかったというものである[7]。もう一つは、社会民主党内で直接に帝国の解体を主張する意見がほとんどなく、多くの民族組織は基本的には帝国の枠組みの維持を望んでいたという点をもって、(さらに多民族のモザイク的状況を考慮すれば)文化的民族自治論は当時の二重帝国において十分に現実的な理論であったというものである[8]

主要な人物

より広範には、以下の人々も含まれる。

  • クンフィ・ジグモンド(Kunfi Zsigmond / 1879 - 1929) - ハンガリー人。
  • フォガラシ・ベーラ(Fogarasi Béla / 1891 - 1959) - 同上。哲学者。
  • レンジェル・ジュラ(Lengyel Gyula / 1888 - 1941) - 同上。
  • ボフミール・シュメラル(Bohumír Šmeral / 1880 - 1941) - チェコ人。チェコスロヴァキア共産党創立者の一人。
  • バレンチノ・ピットーニ(Valentino Pittoni / 1872 - 1933) - イタリア人。労働運動指導者。
  • ヘンリク・グロスマン(Henryk Grossman / 1881 - 1950) - ポーランド人。経済学者・歴史家
  • イヴァン・ツァンカル(Ivan Cankar / 1876 - 1918) - スロベニア人。詩人劇作家

また初期にオーストリアで活動し社会民主党結党時のハインフェルト綱領作成に関わったカウツキーを含める見解もある。


  1. ^ 良知力「オーストリア・マルクス主義」。
  2. ^ 小沢弘明「オーストリア・マルクス主義」。「赤いウィーン」は社会民主党が市政を掌握していた1919年から1934年までのウィーンをさす。
  3. ^ ただし、修正主義との違いはそれほど明確ではなく、オーストリア・マルクス主義も新カント派によってマルクス主義を「補完」しようとした、という評価もある(安世舟・新明正道)。
  4. ^ 良知力、前掲。
  5. ^ ただしレンナーが民族問題における属人主義原理を重視(のちに一元化)して「文化的自治」の表現を取らなかったのに対し、バウアーは属地主義原理と属人主義原理の相互補完を主張した。塩川伸明 『民族とネイション』、p.63。
  6. ^ ただしバウアー自身はユダヤ人への自治付与を否定している。丸山敬一『マルクス主義と民族自決権』、p.187。
  7. ^ 小沢弘明「オーストリア・マルクス主義」『世界民族問題事典』。
  8. ^ 倉田稔「レンナー」、p.146。
  9. ^ オーストリア・マルクス主義を「労働運動統一のイデオロギー」と規定したバウアーは、のちにこの思想的潮流の起源を、1889年のハインフェルト党創立大会におけるV・アドラーによる党の統一への努力に求めている(酒井晨史)。
  10. ^ 以上、ブラウンタール『社会主義への第三の道』第2章。
  11. ^ 安世舟「社会民主主義」。





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