二重帝国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 15:26 UTC 版)
その後バウアーは「オーストリア・マルクス主義派」の理論家として社会民主党指導者V・アドラーから将来を嘱望されるようになった。1897年、社会民主党の「ブリュン民族綱領」制定をきっかけに党内あるいはオーストリア・マルクス主義派の間で国内の民族問題に関する議論が盛んになると、バウアーはレンナーとともに同党の民族政策の理論化・体系化の作業を担い、1907年には大著『民族問題と社会民主主義』を刊行し、民族自治政策において二重帝国の枠組みの維持を前提に属地的な自治組織に加えて属人的な文化的自治の制度の導入を提唱する、いわゆる「文化的=民族自治」論の代表的論者となり、民族の本質を領域・言語の共通性と見なす観点からこれを批判するカウツキーやレーニンとの間で論争を展開した。また、同年には社会民主党帝国議会議員団書記に就任するとともに、同党機関紙『アルバイター・ツァイトゥング』の編集員になるとともに、党の理論誌『闘争』(Der Kampf)を創刊してその編集に携わり、オーストリア・マルクス主義派の理論活動の拠点とした。 1914年に第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリーが同盟国として参戦すると応召し従軍する。ロシア軍の捕虜となりシベリアに送られるも、V・アドラーの尽力により捕虜交換で釈放され帰国し、この間ボリシェビキによるロシア革命の実態を目撃した。帰国当時のオーストリアでは、F・アドラー(V・アドラーの子)ら党内左派による反戦運動が次第に大衆的支持を獲得しており、バウアーはそれまでの戦争支持の態度を変え、F・アドラーら少数左派に合流した。大戦末期の1918年、「左翼民族綱領」の起草に関与し、それまでの立場を若干修正して国内少数民族の民族自決権を許容する姿勢に転じた。
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