二重帝国、多民族化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:32 UTC 版)
ハプスブルク帝国の成立後、増税や徴兵など厳しい時代が続いた。この時代はルーシ人が増加する一方、ルーマニア人の一部が奴隷化したため、ティサ右岸のいくつかの地域にはルーシ人が多く住むようになった。また、人口が大幅に増加し、土地がどんどん細かく分割されていった。1848年には農奴制が廃止されたものの、農奴から解放された人々や新たな移民により、土地はさらに細分化された。 ガリツィアから来たユダヤ人は、主に都市に住んでいたのが村にも住むようになり、交易において重要な役割を果たすようになった。例えばクヘアでは、1771年に15人だったのが、1900年には320人に達した。 帝国政府は鉱業を促進するため、伝統的な鉱山地域から経験豊富な労働者の移住を奨励した。それで、ポーランド人、スロバキア人、ドイツ人が鉱山の街へやって来た。彼らははじめ塩の鉱山で働いていたので「şugăi」と呼ばれた。 オーストリア=ハンガリー帝国の1910年の国勢調査によると、マラムレシュの総人口357,535人のうち、母語で分類すると、159,489人のルーシ人、84,510人のルーマニア語話者、59,552人のドイツ語話者、52,964人のハンガリー語話者がいた。ドイツ語やハンガリー語の話者の多くは、実際にはユダヤ人であった。
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