分裂回避の努力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/29 17:10 UTC 版)
「オーストリア・マルクス主義」の記事における「分裂回避の努力」の解説
結局オーストリア=ハンガリー二重帝国は大戦末期の1918年10月に崩壊し、翌11月には「オーストリア共和国」の成立が宣言される(オーストリア革命)。このなかで社会民主党(およびオーストリア・マルクス主義派)はプロレタリア革命を遂行し権力を奪取する道を選ばず、共和派(ブルジョワ自由主義者)と連合して政権を形成し、経済的に「社会化」を進めながら選挙による党勢拡大をはかり革命の機会を待つという方針を選択した。さらに戦後、党の指導権を掌握したバウアーら左派は、第一次大戦への参戦を支持した愛国主義的な右派を「(党の)統一と団結」の名の下に免罪した。国際運動においては、1922年、バウアーやF・アドラーにより第二半インター(ウィーン・インターナショナル)が設立され、大戦とロシア革命による第二インターとコミンテルン(第三インター)の分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざした。しかし以上のようなオーストリア・マルクス主義派の態度は、レーニンらボリシェヴィキ派(ロシア共産党)からは「和解できないものを和解させようとする日和見主義」であると猛反発を受け、また第二半インター自体もほどなくして社会主義労働インター(第二インターの後継団体)に吸収されたため運動としては失敗に終わった。
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