分裂後のカロリング朝後継国家とは? わかりやすく解説

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分裂後のカロリング朝後継国家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「分裂後のカロリング朝後継国家」の解説

結局カール大帝帝国社会的制度的に永続性欠いており、王家分割相続により瓦解することとなった。この時代北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人侵入し、これにカロリング家君主はうまく対応することが出来ず逆に辺境防衛担った貴族軍事力高めとともに影響力強めた885年にはカール3世によって帝国再統一される。しかし、カール3世ノルマン人サラセン人イスラム勢力)、マジャール人侵入に対して適切に対処できなかったため887年東フランク王国貴族たちによって廃位宣言され退位後まもなく死亡した新し東フランク国王にはアルヌルフ選出されノルマン人破ってライン地方平定して896年皇帝となった西フランクでは、カロリング家血縁ではなかったが、ノルマン人破った功績により、パリ伯ウード888年選出された。ウード支配正統性維持するためにアルヌルフ宗主権認め、のちにはカロリング家シャルル3世後継者として認めざるをえなかったが、ウード即位明らかにフランク王国史の新展開告げるものであった西フランク王位はこれ以後カロリング家ロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝創始され、のちのフランス王国へと変貌遂げ始めたアルヌルフ皇帝死に後継者ルートヴィヒ4世幼童王(在位900-911)が早世カロリング家血縁途絶えたので、東フランク貴族帝国血縁拘ることをやめ、貴族のなかから王を選出するようになった。やがてフランケンバイエルンのルイトポルディング家・ザクセンリウドルフィング家大公に就き、さらに大公位を巡って内戦フェーデ)が繰り返されたが、フランケンコンラート1世勝利し911年東フランク国王となった。こうしてカロリング帝国瓦解しドイツ王国枠組み形成されていったが、内戦その後続いた。この過程王国統一維持観点から、王国の分割相続徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続原則確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家影響弱まると、異民族の侵入諸侯による王位争奪激化から都市防衛拠点として成長し始めたブルグント王国888年独立し1032年神聖ローマ帝国併合されるまで独立維持した

※この「分裂後のカロリング朝後継国家」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
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