分裂後のカロリング朝後継国家
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「分裂後のカロリング朝後継国家」の解説
結局カール大帝の帝国は社会的・制度的に永続性を欠いており、王家の分割相続により瓦解することとなった。この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。885年にはカール3世によって帝国が再統一される。しかし、カール3世はノルマン人、サラセン人(イスラム勢力)、マジャール人の侵入に対して適切に対処できなかったため887年に東フランク王国の貴族たちによって廃位を宣言され退位後まもなく死亡した。新しい東フランク国王にはアルヌルフが選出され、ノルマン人を破ってライン地方を平定して896年に皇帝となった。 西フランクでは、カロリング家と血縁ではなかったが、ノルマン人を破った功績により、パリ伯ウードが888年に選出された。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。 アルヌルフ皇帝が死に、後継者ルートヴィヒ4世幼童王(在位900-911)が早世しカロリング家の血縁は途絶えたので、東フランク貴族は帝国や血縁に拘ることをやめ、貴族のなかから王を選出するようになった。やがてフランケンやバイエルンのルイトポルディング家・ザクセンのリウドルフィング家が大公位に就き、さらに大公位を巡って内戦(フェーデ)が繰り返されたが、フランケン公コンラート1世が勝利し、911年東フランク国王となった。こうしてカロリング帝国は瓦解し、ドイツ王国の枠組みが形成されていったが、内戦はその後も続いた。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。
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