分裂後のカロリング朝国家とは? わかりやすく解説

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分裂後のカロリング朝国家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:10 UTC 版)

カロリング朝」の記事における「分裂後のカロリング朝国家」の解説

カール大帝帝国王家分割相続により瓦解した885年にはカール3世によって帝国再統一されるが、一時的なことに過ぎず887年には東フランクアルヌルフによって廃位追い込まれた。 翌888年には西フランク王位がパリ伯ウード移り一時的にではあるがカロリング家血統から外れたウード支配正統性維持するためにアルヌルフ宗主権認め、のちにはカロリング家シャルル3世後継者として認めざるをえなかったが、ウード即位明らかにフランク王国史の新展開告げるものであった西フランク王位はこれ以後カロリング家ロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝創始され、のちのフランス王国へと変貌遂げ始めた。 この時代北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人侵入し、これにカロリング家君主はうまく対応することが出来ず逆に辺境防衛担った貴族軍事力高めとともに影響力強めた前述パリ伯ウードも対ノルマン防衛声望集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公辺境貴族台頭し東フランク王国統合維持努めながらも、自らの支配領域拡大していった。彼らは地域における主導権争い勝利して地域内において国王類似の権力有するようになり、やがてカロリング家東フランク断絶すると、これら有力貴族玉座登ることとなり、のちのドイツ王国枠組み形成されていく。この過程王国統一維持観点から、王国の分割相続徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝国家のいずれにおいても単独相続原則確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家影響弱まると、異民族の侵入諸侯による王位争奪激化から都市防衛拠点として成長し始めたブルグント王国888年独立し1032年神聖ローマ帝国併合されるまで独立維持した

※この「分裂後のカロリング朝国家」の解説は、「カロリング朝」の解説の一部です。
「分裂後のカロリング朝国家」を含む「カロリング朝」の記事については、「カロリング朝」の概要を参照ください。

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