エドワード7世 (イギリス王)
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子女
アリックス王妃との間に3男3女を儲けた[191]。
- アルバート・ヴィクター(1864年-1892年) クラレンス公。愛称エディ
- ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(1865年-1936年) 次代国王ジョージ5世
- ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー(1867年-1931年) ファイフ公爵アレグザンダー夫人
- ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー(1868年-1935年)
- モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア(1869年-1938年) ノルウェー国王ホーコン7世妃
- アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート(1871年、夭折)
-
エドワードと妃アリックスと長男エディ(ラウリッツ・タクセン画)
-
エドワードと次男ジョージ(1890年)
脚注
参考文献
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競馬関連
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- 『グローバル・レーシング』アラン・シューバック、デイリーレーシングフォーム・刊、財団法人競馬国際交流協会・訳刊、2010
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
- 『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005
- 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
- 『名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、明文社刊、1970、1977
- 『伝説の名馬PartIII』山野浩一・著、中央競馬ピーアール・センター・刊、1996
関連項目
- 第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル(1902年まで首相)
- アーサー・バルフォア(1902年から1905年まで首相)
- ヘンリー・キャンベル=バナマン(1905年から1908年まで首相)
- ハーバート・ヘンリー・アスキス(1908年から首相)
- 日英同盟
- 三国協商
- 威風堂々
- 戴冠式頌歌
- ヴィクトリア朝
- クレープシュゼット
- エドワード七世の戴冠式
- 君塚直隆
エドワード7世
ヴェッティン家分家
| ||
イギリス王室 | ||
---|---|---|
先代 ヴィクトリア |
イギリス国王 大英帝国自治領国王 インド皇帝 1901年1月22日 - 1910年5月6日 |
次代 ジョージ5世 |
空位 最後の在位者 ジョージ皇太子(後のジョージ4世) |
プリンス・オブ・ウェールズ コーンウォール公爵 ロスシー公爵 1841年 – 1901年 |
次代 ジョージ皇太子 (後のジョージ5世) |
職能団体・学会職 | ||
先代 ウィリアム・トゥック |
科学技術産業振興協会会長 1863年 – 1901年 |
次代 サー・フレデリック・ブラムウェル準男爵 |
フリーメイソン | ||
先代 初代リポン侯爵 |
イングランド・連合グランドロッジ グランドマスター 1874年 – 1901年 |
次代 初代コノート公爵 |
名誉職 | ||
空位 最後の在位者 王配アルバート
|
バス騎士団グレート・マスター 1897年 – 1901年 |
次代 初代コノート公爵 |
注釈
- ^ 「君主の長男」(法定推定相続人)の最長記録はチャールズ3世が2011年4月20日にエドワード7世の記録を更新したが、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは1958年7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅かった。そのため、その後もエドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かったが、この記録も2017年9月9日にチャールズが更新した[2]。
- ^ 英露協商が結ばれた1907年には日仏協約と日露協約が結ばれた。したがってこの年だけで、露仏同盟をふくむドイツ帝国包囲網6条約のうち3つが成立したことになる。
- ^ 時の首相メルバーン卿は「アルバート」の名前はノルマン朝が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた[6]。
- ^ あくまで勉強であったので「プリンス・オブ・ウェールズ」としてではなく、「レンフルー男爵(英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している[12]。
- ^ 現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた[27]。
- ^ 生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた[70]。
- ^ 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた[83]。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した[84]。
- ^ エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。またペルシャ帝国(イラン)皇帝(シャー)モザッファロッディーン・シャーも父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)[123]。
- ^ ただし母のヴィクトリア女王を憚って、他人の名義で競走馬を出走させた[166]。自身の名義で走らせるようになったのは1877年から[166][167]。
- ^ ヴァンプルー,p56 によれば1886年。
出典
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- エドワード7世 (イギリス王)のページへのリンク