エドワード7世 (イギリス王) 人物

エドワード7世 (イギリス王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 00:19 UTC 版)

人物

母への恐怖

ヴィクトリア女王が長きにわたって在位したため、60年にもわたって皇太子だった[148]

彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった[149]。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという[150]

彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという[149]。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった[151]

ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、ベンジャミン・ディズレーリウィリアム・グラッドストンは女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に無断でエドワードに見せていた。エドワードもグラッドストンに深く感謝し、グラッドストンの葬儀に際しては恐らく初めて母の意思に反する形で彼の葬儀に出席している[152]

放蕩

1898年から崩御まで愛人だったアリス・ケッペルを描いた絵。
エドワード7世と王妃アレクサンドラ

皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた[153]。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという[154]。恋愛問題をめぐってランドルフ・チャーチル卿(後の英国首相ウィンストン・チャーチルの父)に決闘を申し込んだこともある[155]

数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「ロイヤル・ミストレスRoyal mistress)」と俗称された[156]。その最初の一人は、1877年5月に知り合い、1880年に別れたリリー・ラングトリーだった。ジャージー出身の平民の人妻だが、美人で気立てが良く、身の程をわきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーはアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスはリリーに対して嫉妬しなかったという)[157]

つづいて1889年から1897年までウォリック伯爵夫人デイジー・グレンヴィル英語版を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はメイナード子爵家英語版の令嬢で第5代ウォリック伯フランシス・グレンヴィル英語版の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた[158]。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった[159]

その後1898年早春から国王即位を挟んで1910年の崩御までアリス・ケッペル夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵ウィリアム・ケッペル英語版の三男ジョージ・ケッペル英語版と結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた[160]

「ピースメーカー」

即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた[148]

彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国フランスロシア、また東洋の新興国日本と連携関係を創ることができた[161]。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた[162]

エドワード7世にはヴィルヘルム2世黄禍論のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた[163]

フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである[161]

一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた(ただし、ロシアとの同盟を解消したのはドイツであり、日本に三国干渉を仕掛けるなど嫌われる行動、孤立する行動をヴィルヘルム二世は自分からとっている)。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した[164]。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという[165]

競馬

ダービー優勝直後のミノルとエドワード7世。エドワード7世に手綱が手渡される瞬間を描いている。紫地に金の飾緒、緋色の袖、黒帽子の王室の服色も確認できる。

エドワード7世は皇太子時代から競馬に熱心だった。1864年にイギリス競馬会(ジョッキークラブ)の会員になり、馬主としてデビューした[注釈 9]

1885年にはサンドリンガムに牧場を開設してサラブレッド生産を始めた。その生産馬で1896年に1000ギニーを勝ってクラシック競走初優勝[168][注釈 10][167][169]、同年6月にはパーシモンダービーをレコード勝ちし、1822年のヨーク公フレデリック以来の74年ぶりの王族によるダービー優勝となった。パーシモンは翌年に古馬最高峰のゴールドカップも制し[168][170]、引退して種牡馬になるとイギリスの種牡馬チャンピオンとなった[171][172]。1900年には自家生産馬でイギリス最大の障害競走グランドナショナル優勝(王族として史上初)、ダイヤモンドジュビリー2000ギニー、ダービー、セントレジャーの三冠制覇(2017年現在、王族として唯一の例)、この年の馬主チャンピオン・生産者チャンピオンとなった[168][173]

国王即位後も、1909年にミノルで2000ギニーとダービーを制した。現役の国王としてのダービー優勝は2017年時点で唯一の例である[168][174]。この優勝は第9代準男爵サー・チャールズ・レスター(Sir Charles Byrne Warren Leicester, 9th Baronet,1896–1968)によって「おそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と評されている[175]

王族としての競馬での活躍は王室人気に貢献した[168][176][177][178]。最初のダービー優勝の様子は映画になってイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどで放映された[179][180][181]アスコット競馬場ではエドワード7世を記念して「キングエドワード7世ステークス」が行われているほか、プリンスオブウェールズステークスもエドワード7世の王太子時代に創設されたものである[182]

ファッション

皇太子時代からファッションリーダーとして名をはせており、その影響は現代でも見てとれる。例えばディレクターズスーツはエドワード7世の発案とされている[183]。これはそれ以前にはあくまで室内着、あるいはカジュアルに近い服装とされていた3つ揃いのスーツを、フロックコートモーニングコートに次ぐ礼装として調えたものであり、エドワード7世自身が着用することで礼服としての地位が示された。また、この格好と合わせられるホンブルク帽を有名にしたのも他ならぬエドワード7世である。さらに、グレンチェック模様の服を皇太子時代から好んで着用したために、この模様には「プリンス オブ ウェールズ」という呼び名があり、また今でもそう呼ばれている[184]。ネクタイの結び方の種類に「プリンス・アルバート」というものがある。これは、結び目を小さく形作る方法である[185]

その他

  • 1868年スウェーデン王カール15世(スウェーデン・グランドロッジのグランドマスター)の手でフリーメイソンに加入した[186]。1870年からイングランド・連合グランドロッジのグランド・マスターを務めた。即位に際して辞職した[187]。ただメイソンリー活動にはさほど熱心ではなかったようである[188]
  • ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世の伯父にあたるため、「ヨーロッパの伯父さん」と渾名された[189]
  • プリンス・オブ・ウェールズとしての在任期間が長いため「プリンス・オブ・ウェールズ島」など「プリンス・オブ・ウェールズ」の名がつけられた固有名詞はエドワード7世に由来するものが多い。
  • 自動車への関心も高く、1907年にはそれ以前からイギリスに存在した自動車クラブを改称する形で王立自動車クラブ(RAC)の設立を命じた[190]
  • コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの1作『高名な依頼人』にも、直接の名指しはされないが事件の依頼人として登場する。20世紀のミステリ作家ピーター・ラヴゼイには、エドワード皇太子を主人公とした長編シリーズを3作、刊行している。

注釈

  1. ^ 「君主の長男」(法定推定相続人)の最長記録はチャールズ3世2011年4月20日にエドワード7世の記録を更新したが、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは1958年7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅かった。そのため、その後もエドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かったが、この記録も2017年9月9日にチャールズが更新した[2]
  2. ^ 英露協商が結ばれた1907年には日仏協約日露協約が結ばれた。したがってこの年だけで、露仏同盟をふくむドイツ帝国包囲網6条約のうち3つが成立したことになる。
  3. ^ 時の首相メルバーン卿は「アルバート」の名前はノルマン朝が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた[6]
  4. ^ あくまで勉強であったので「プリンス・オブ・ウェールズ」としてではなく、「レンフルー男爵(英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している[12]
  5. ^ 現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた[27]
  6. ^ 生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた[70]
  7. ^ 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた[83]。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した[84]
  8. ^ エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。またペルシャ帝国(イラン)皇帝(シャー)モザッファロッディーン・シャーも父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)[123]
  9. ^ ただし母のヴィクトリア女王を憚って、他人の名義で競走馬を出走させた[166]。自身の名義で走らせるようになったのは1877年から[166][167]
  10. ^ ヴァンプルー,p56 によれば1886年。

出典

  1. ^ Edward VII king of Great Britain and Ireland Encyclopædia Britannica
  2. ^ 君塚(2012) p.402
  3. ^ 君塚(2012) p.3/7
  4. ^ 森(1994) p.82
  5. ^ ワイントラウブ(1997)上巻 p.249
  6. ^ 君塚(2012) p.4-5
  7. ^ 君塚(2012) p.3-5
  8. ^ 君塚(2012) p.5-7
  9. ^ 君塚(2012) p.7-8
  10. ^ 君塚(2012) p.8
  11. ^ 君塚(2012) p.8-9
  12. ^ 君塚(2012) p.10
  13. ^ 君塚(2012) p.10-11
  14. ^ 君塚(2012) p.11
  15. ^ 君塚(2012) p.14
  16. ^ 森(1999) p.266
  17. ^ 君塚(2012) p.16-17
  18. ^ 君塚(2012) p.18-20
  19. ^ 君塚(2012) p.23-24
  20. ^ 君塚(2012) p.23-26
  21. ^ 君塚(2012) p.25-28
  22. ^ 君塚(2012) p.51-52
  23. ^ 君塚(2012) p.28
  24. ^ 君塚(2012) p.28-30
  25. ^ 君塚(2012) p.30-31
  26. ^ 君塚(2012) p.31-33
  27. ^ 君塚(2012) p.35
  28. ^ 君塚(2012) p.33-37
  29. ^ 君塚(2012) p.37-39
  30. ^ 君塚(2012) p.37-42
  31. ^ 君塚(2012) p.43-44
  32. ^ 君塚(2012) p.45
  33. ^ 君塚(2012) p.46-49
  34. ^ a b 君塚(2012) p.49-50
  35. ^ ベイカー(1997) p.196
  36. ^ 君塚 (2023), p. 109-110.
  37. ^ 君塚(2012) p.52-53
  38. ^ 君塚(2012) p.54
  39. ^ a b 君塚(2012) p.55-56
  40. ^ a b c 君塚(2012) p.62
  41. ^ 君塚(2012) p.64-66
  42. ^ 君塚(2012) p.65-66
  43. ^ 君塚(2012) p.67-70
  44. ^ 君塚(2012) p.69-70
  45. ^ a b 君塚(2012) p.70
  46. ^ 君塚(2012) p.70-71
  47. ^ 君塚(2012) p.71
  48. ^ 君塚(2012) p.72
  49. ^ 君塚(2012) p.73-74
  50. ^ 君塚(2012) p.75-76
  51. ^ 君塚(2012) p.76-78
  52. ^ 君塚(2012) p.78-79
  53. ^ 君塚(2012) p.80-81
  54. ^ 君塚(2012) p.81-82
  55. ^ 君塚(2012) p.82
  56. ^ 君塚(2012) p.82-83
  57. ^ a b c d ベイカー(1997) p.197
  58. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.328-329
  59. ^ a b ワイントラウブ(1997)下巻 p.329
  60. ^ 君塚(2012) p.84-85
  61. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.343
  62. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.343-344
  63. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.363
  64. ^ 君塚(2012) p.85
  65. ^ 君塚(2012) p.85-86
  66. ^ 君塚(2012) p.87-88
  67. ^ 君塚(2012) p.88
  68. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.505
  69. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.507-508
  70. ^ a b 君塚(2012) p.91
  71. ^ a b 君塚(2012) p.92
  72. ^ ワイントラウブ(1997)下巻 p.513
  73. ^ a b 君塚(2012) p.92-93
  74. ^ 君塚(2012) p.93-94
  75. ^ 君塚(2012) p.93
  76. ^ 村岡、木畑(1991) p.229
  77. ^ 坂井(1967) p.323
  78. ^ ブレイク(1979) p.199
  79. ^ タックマン(1990) p.66
  80. ^ 君塚 (2023), p. 127-128.
  81. ^ 君塚 (2023), p. 133-134.
  82. ^ 高橋(1997) p.93
  83. ^ 市川(1982) p.156
  84. ^ a b ブレイク(1979) p.206-208
  85. ^ 坂井(1967) p.205-206
  86. ^ 坂井(1967) p.208-219
  87. ^ 中村(1978) p.35/47
  88. ^ 坂井(1967) p.416-417
  89. ^ 中村(1978) p.40/45
  90. ^ a b c 中村(1978) p.47
  91. ^ 君塚 (2023), p. 139.
  92. ^ 坂井(1967) p.382-383
  93. ^ 坂井(1967) p.420/427
  94. ^ 中村(1978) p.52
  95. ^ 坂井(1967) p.446-447
  96. ^ 坂井(1967) p.459-460
  97. ^ 市川(1982) p.104-106
  98. ^ 市川(1982) p.104/125
  99. ^ 君塚(2012) p.136
  100. ^ 坂井(1967) p.233-297
  101. ^ 君塚(2012) p.138
  102. ^ 君塚(2012) p.144-146
  103. ^ 君塚(2012) p.147
  104. ^ 坂井(1967) p.297/307-309
  105. ^ 君塚(2012) p.99/111
  106. ^ 坂井(1967) p.307
  107. ^ 君塚(2012) p.100-103
  108. ^ 君塚(2012) p.105-108
  109. ^ 君塚(2012) p.109
  110. ^ タックマン(1986) p.15
  111. ^ 君塚(2012) p.112-116
  112. ^ 坂井(1967) p.252/308
  113. ^ 坂井(1967) p.308-309
  114. ^ 君塚(2012) p.119-120
  115. ^ 君塚(2012) p.123-124
  116. ^ 君塚(2012) p.154-155
  117. ^ 君塚(2012) p.155
  118. ^ 君塚(2012) p.157
  119. ^ 君塚(2012) p.157-158
  120. ^ 君塚(2012) p.159-160
  121. ^ 君塚(2012) p.164
  122. ^ 君塚(2012) p.166
  123. ^ 君塚(2012) p.175-176
  124. ^ 君塚(2012) p.173-176
  125. ^ 参勤交代と日本の文化 コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス(メリーランド大学準教授)日文研フォーラム、第169回 pp.1 - 29、2004-10、国際日本文化研究センター
  126. ^ 君塚(2012) p.298-299
  127. ^ 君塚(2012) p.124-128
  128. ^ 君塚(2012) p.127-128
  129. ^ 君塚(2012) p.208-210
  130. ^ 君塚(2012) p.213-215
  131. ^ 君塚(2012) p.248-256
  132. ^ 君塚(2012) p.258-259
  133. ^ 君塚(2012) p.259-265
  134. ^ 君塚(2012) p.293-295
  135. ^ 君塚(2012) p.304-305
  136. ^ 君塚(2012) p.309-311
  137. ^ 君塚(2012) p.265-266
  138. ^ 君塚(2012) p.267
  139. ^ 君塚(2012) p.268
  140. ^ 君塚(2012) p.268-271
  141. ^ 君塚(2012) p.276-277
  142. ^ 君塚(2012) p.315-322
  143. ^ 君塚(2012) p.324-325
  144. ^ 君塚(2012) p.352-353
  145. ^ a b 君塚(2012) p.354
  146. ^ ロングリグ(1976) p.275
  147. ^ 君塚(2012) p.356-362
  148. ^ a b 森(1999) p.265
  149. ^ a b 森(1999) p.266-267
  150. ^ 川本・松村編(2006) p.64
  151. ^ ベイカー(1997) p.190
  152. ^ 君塚(2012) p.72-73/86-89
  153. ^ 森(1999) p.267
  154. ^ 森(1999) p.308
  155. ^ ペイン(1975) p.44
  156. ^ 森(1999) p.276
  157. ^ 森(1999) p.276-283/290-291
  158. ^ 森(1999) p.284-291
  159. ^ 森(1999) p.292-297
  160. ^ 森(1999) p.297-302/306
  161. ^ a b タックマン(1986) p.14
  162. ^ 君塚(2012) p.367
  163. ^ 君塚(2012) p.369
  164. ^ タックマン(1986) p.12
  165. ^ 君塚(2012) p.366-367
  166. ^ a b バーネット p.112-116
  167. ^ a b ロングリグ(1976) p.137/275
  168. ^ a b c d e ヴァンプルー p.56-57
  169. ^ Church,p193
  170. ^ クレイグ,p.90-91
  171. ^ 山野1970,75
  172. ^ Throughbred Heritage Persimmon 2014年12月17日閲覧。
  173. ^ クレイグ、p.223
  174. ^ クレイグ,p.118
  175. ^ レスター、p.272
  176. ^ The Advertiser紙 1909年5月28日付 A Popular Victory 2014年12月16日閲覧。
  177. ^ Kalgoorlie Miner 紙 1909年6月9日付 An Exciting Scene 2014年12月16日閲覧。
  178. ^ レスター、p.272-273
  179. ^ Wanganui Herald紙 1896年10月26日付 A REPREHENSIBLE PRACTICE 2014年12月17日閲覧。
  180. ^ Mataura Ensign紙 1896年12月10日付 The Cinematographe on the Stage 2014年12月17日閲覧。
  181. ^ Star紙 1897年4月6日付 THEATRE ROYAL 2014年12月17日閲覧。
  182. ^ FRIXO Prince of Wales`s Stakes Betting
  183. ^ 髙村(1997) p.42
  184. ^ プリンス オブ ウェールズ:Prince of Wales
  185. ^ プリンスアルバート
  186. ^ 湯浅慎一 1990, p. 107.
  187. ^ Edward VII” (英語). Grand Lodge of British Columbia and Yukon. 2014年2月17日閲覧。
  188. ^ 湯浅慎一 1990, p. 108.
  189. ^ 君塚(2012) p.233
  190. ^ About the Club - RAC
  191. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Edward VII Saxe-Coburg and Gotha, King of the United Kingdom” (英語). thepeerage.com. 2014年4月13日閲覧。
  192. ^ 君塚(2004) p.108
  193. ^ 君塚(2004) p.300-302
  194. ^ Matthew, H. C. G. (26 May 2016) [2004]. "Edward VII". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/32975 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)


「エドワード7世 (イギリス王)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エドワード7世 (イギリス王)」の関連用語

エドワード7世 (イギリス王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エドワード7世 (イギリス王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエドワード7世 (イギリス王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS