改革の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:42 UTC 版)
安政の大獄以来、逼塞に追い込まれていた徳川慶喜、松平慶永らが表舞台に復帰したことにより、幕府の改革は進むかに見えたが、やがて久光との意見の相違が明らかとなり、対立する。なお、久光は帰国の最中、生麦事件を起こすこととなった。 改革の必要があったとはいえ、外様大名の父の圧力、およびそれまで政治的実権を有していなかった朝廷の圧力により改革を強要されたことは、幕府の権威に著しいダメージを与えた。それとともに朝廷の権威は相対的に上昇し、幕府は翌年の将軍家茂に対する上洛要求の勅命にも屈する。そして将軍上洛を契機に、幕府の権力も江戸と京都に分裂し、幕府崩壊に至るまで分裂状態は完全に回復されないまま、その寿命を縮めた。 一方京都でも、久光の行動と寺田屋事件などの影響により、薩摩藩・会津藩などを中心とする公武合体(幕政改革)派と、長州藩や真木和泉らの志士などを中心とする尊王攘夷派の間で、京都政界の主導権を巡る対立が激しさを増していく。また勅命の成功によって、それまで政治的発言を封じられていた少壮公卿もまた発言力を増大させ、中川宮朝彦親王・二条斉敬ら公武合体派と三条実美・姉小路公知はじめとする尊攘派公家が激しく対立する。これらの動きが翌年の八・一八政変、翌々年の禁門の変などにつながっていくことになった。
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