囚人労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:58 UTC 版)
徳川幕府は1778年から佐渡金銀山に無宿者を鉱山役夫(水替人足)として送り込み、労役に着かせた。また、1790年に火付盗賊改長谷川宣以の建議で設立した江戸・石川島の人足寄場に軽罪の囚人と無宿者を収容し、労役に着かせた。後に水戸(常陸上郷村)、大阪、長崎、箱館、横須賀などに人足寄場が作られた。この人足寄場は収容施設兼職業訓練施設として日本の近代的自由刑の原形となった。 明治時代に入ると身体刑が廃止され、懲役などの自由刑が主流となる。三池炭鉱は最初は政府直轄であったが、後で三井組が払い下げをうけ、三井三池炭鉱となった。ここには福岡、佐賀、長崎、熊本の監獄から囚人が送られて労働した。明治時代、阿蘇の難路の工事は熊本監獄の囚人により完成した。熊本の三角港の完成にも300人の囚人が使役された。3年余におよぶ過酷な労働で死亡した囚人69人を合葬した「解脱墓」が天草五橋1号橋の道路わきの林の中に建っている。 北海道開拓のために設置された樺戸・空知・釧路・網走の各集治監では道路建設や硫黄鉱山・炭鉱採掘に囚人が使役された。上川道路仮道の建設では4000円の当初予算に対し、1877円~3787円(工賃15銭/人)と言う格安の記録が残されている。北見道路における建設作業を行っていた樺戸・空知・釧路(網走外役所)の各集治監ではわずか半年間に180人が死亡した。死亡した囚人は鎖を外されぬままに埋葬された。また、アトサヌプリ(硫黄山)における採掘作業を行っていた釧路集治監では505人が死亡し、標茶霊園に合葬されている。
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