シャトル外交
別名:往復外交
英語:shuttle diplomacy
外交交渉において、当事国である二国間を頻繁に行き来し、それぞれの地で交渉に臨むこと。
シャトル外交には、一般的に、第三国の外交官が仲介者となって二国間を行き来する外交を指す場合と、当事国の首脳や高官が互いに相手国を訪問して会談・交渉を行う外交を指す場合がある。
第三国の外交官が仲介者となって二国間を行き来するシャトル外交は、米国ニクソン政権下でキッシンジャー国務長官が中東に対して行った「中東シャトル外交」を指すことが多い。
また、当事国の首脳や高官が互いに相手国を訪問して会談・交渉を行うシャトル外交は、国内では日本と韓国の間で行われる「日韓シャトル外交」を指すことが多い。
日韓シャトル外交は、2004年に小泉純一郎・第87-89代内閣総理大臣と盧武鉉(ノムヒョン)韓国大統領との間で開始された。以来、断続的にではあるが、年に1度ずつ両国首脳が相手国を訪れるペースでシャトル外交が行われている。
2011年12月18日には、李明博(イミョンバク)韓国大統領が日本を訪れ、京都で日韓首脳会談が開かれた。2009年10月以来のシャトル外交の再開となった。
シャトル外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 12:41 UTC 版)
シャトル外交(シャトルがいこう、shuttle diplomacy)とは、紛争の当事者同士が直接接触することなく、第三者が双方の当事者の仲介役を務めることを指す外交上の用語である。「シャトル」とは飛行機や列車、バスなどの(特に短距離の)定期往復便のことであり、仲介者がシャトル便のように双方の当事者の間を行ったり来たりすることからこの名が付いた。
1973年の第四次中東戦争停戦の後、アメリカ合衆国国務長官のヘンリー・キッシンジャーがアラブとイスラエルの調停のために双方の国を頻繁に訪問していたことを指すのに使われたのが最初である[1]。
紛争の当事者の片方または双方が、相手側の承認を拒否している場合に、しばしばシャトル外交が行われる。また、斡旋の場合にもこの言葉が用いられる[2]。
なお、日本語において「シャトル外交」という言葉は、本項の意味とは異なり「二国間の首脳同士の相互の往来」の意味でも使用される[3]。日本と韓国の首脳が年1回相互訪問を行う日韓シャトル外交はこの意味で用いられており、日韓関係の文脈では単に「シャトル外交」と呼ばれることがある。
例
「シャトル外交」という言葉が生まれる以前から、似たような行為は行われていた。1919年のパリ講和会議において、イタリアが1915年のロンドン条約で約束された民族統一主義に基づく領土主張(いわゆる未回収のイタリア)が認められないことに抗議して会議から脱退した。アメリカ代表団のエドワード・M・ハウスは、イタリアと、領土主張の相手国であるユーゴスラビアとの対立を解決するため、別の部屋にいる両国の代表団と話し合って、両国の妥協案を仲介しようと試みた。ハウスによる仲介は失敗に終わった。要求を通せなかったイタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相は退陣し、ガブリエーレ・ダンヌンツィオらがフューメを占領した[4]。
キッシンジャーは、ニクソン政権とフォード政権の間(1969年から1977年まで)、中東においてシャトル外交を展開した。それにより、1975年のシナイ暫定協定や1974年のゴラン高原に関するイスラエルとシリアの取り決めが実現した[5]。この言葉は、キッシンジャーが国務長官を務めている間に広まった。
トルコは、イスラエルとイスラム諸国との間でのシャトル外交を行ってきた。トルコはイスラム世界におけるイスラエルの最も近い同盟国であり、イスラム教徒が国民の大多数を占めることからイスラム諸国(特にトルコとイスラエルの両方に接するシリア)はトルコには快く従った[6]。2008年のロシアとジョージアの戦争でも、トルコが仲介を行った[7]。
アメリカ国務長官アレクサンダー・ヘイグは、1982年のフォークランド紛争におけるイギリスとアルゼンチンの仲介のためにシャトル外交を行った[8]。
フランス大統領エマニュエル・マクロンは、ロシアとウクライナの間でシャトル外交を行ったが、2022年ロシアのウクライナ侵攻を防ぐことはできなかった[9]。
脚注
- ^ George Lenczowski, American Presidents and the Middle East, (Duke University Press: 1990), p. 131
- ^ For example: Margulies, Robert E. (2002年12月). “How to Win in Mediation”. New Jersey Lawyer. pp. 53–54. 2011年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月21日閲覧。 “After the opening session, the parties usually break into caucus groups, and the mediator utilizes shuttle diplomacy between the groups in order to identify interests and positions of the parties and help them create solutions.”
- ^ “シャトル外交の用語解説・ニュース”. 時事通信社 (2023年5月5日). 2023年11月30日閲覧。
- ^ MacMillan, Margaret (2001). Paris 1919: Six Months that Changed the World. New York: Random House. pp. 299–300. ISBN 0-375-76052-0
- ^ Dhanani, Gulshan (1982-05-15). “Israeli Withdrawal from Sinai”. Economic and Political Weekly 17 (20): 821–822. JSTOR 4370919. "The high points in Kissinger's shuttle diplomacy were:[...] (2) May 1974; the Syrian and the Israeli armies agree to the Golan Heights disengagement"
- ^ “Naharnet — Lebanon's leading news destination”. 2018年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月30日閲覧。
- ^ “Turkey's Erdogan in shuttle diplomacy in Caucasus”. Reuters. (2008年8月13日)
- ^ “Falklands: British resolve, US diplomacy; Haig will shuttle between London, Buenos Aires”. The Christian Science Monitor. (1982年4月8日)
- ^ “The invasion of Ukraine has helped entrench Emmanuel Macron”. The Economist. (2022-03-19). ISSN 0013-0613 2022年3月26日閲覧。.
関連項目
- トラック2外交
シャトル外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:28 UTC 版)
ハンニバル・マゴは自身の個人的感情には左右されず、任務に取り組んだ。彼はセリヌスに外交使節を派遣し、係争土地を引き渡す代わりにセゲスタと停戦することを提案した。カルタゴは常備軍を持たなかったが、この交渉の間に兵を動員する時間が生まれた。また交渉が成功すれば、セゲスタはすでにカルタゴの従属国になっているためカルタゴの実質的な領土を拡大でき、戦争を行わずにセゲスタの安全を守ることができる。カルタゴの提案はセリヌスの議会で議論され、カルタゴに近い市民であるエンピデオンは、カルタゴとの戦争を避けるために強く和平を主張した。しかし、結局セリヌスはカルタゴの提案を拒絶した。 続いてハンニバル・マゴはカルタゴ人とセゲスタ人からなる使節団をシュラクサイに派遣し、シュラクサイがセリヌスとセゲスタの和平を仲介するという提案をした。ただ、これはセリヌスがシュラクサイの調停を拒絶し、シュラクサイがそれ以上の介入を避けるであろうことを計算してのものであった。セリヌスの外交使節がシュラクサイに調停を求めると、シュラクサイはセリヌスとの同盟を破棄するつもりはないが、カルタゴとの平和を壊すつもりもないと返答した。このため、カルタゴはシュラクサイの介入を恐れることなく、セリヌスに対応することができるようになった。すなわち、カルタゴの外交政策により、セリヌスを孤立させることに成功した。
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