シャトル便の開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 14:18 UTC 版)
こうした中、リッケンバッカーは1959年に社長を辞任、アメリカン航空の弁護士だったマクインタイヤが社長となる。マクインタイヤのもとで、イースタン航空は遅まきながらボーイング720やボーイング727といったジェット旅客機を導入したほか、「予約無しで乗れる」をモットーにしたアメリカ東海岸でのシャトル便を開始した。このシャトル便は日本の東京-大阪間で運航されている同名のものと違い、予約不要で乗ることが出来、また満席の場合は続行便が増便されるので必ず希望便に乗ることが出来た。 このイースタン航空初のシャトル便は、ロッキード・エレクトラによるラガーディア空港-ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港-ローガン国際空港の便であった。これは1980年代末に手放すまで高収益路線であったが、このシャトル便をニューヨーク - マイアミ間にも広げたところ、これが失敗に終わってしまう。また、労働組合との軋轢も悩みの種となった。マクインタイヤは古巣のアメリカン航空との合併を図ったが、これにも失敗。1963年、相次ぐ失敗の責任を取って辞任し、トランス・ワールド航空の副社長だった、フロイド・ホールが社長となった。
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