SNCの結成と失脚とは? わかりやすく解説

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SNCの結成と失脚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 21:51 UTC 版)

カジ・レンドゥプ・ドルジ」の記事における「SNCの結成と失脚」の解説

1960年5月28日ドルジはスワタントラ・ダルを離党してSSCやSNPから離党した有志と共にシッキム国民会議派SNC)を創設した。同党総裁にはドルジ選出されている。SNCもやはりネパール住民主体政党であり、民主的責任政府樹立普通選挙実施ネパール系への差別撤廃インド人ディーワーン駐留行政官)によるシッキム内政監督へ反対などを主張しシッキム王室対立した1963年に第11代国タシ・ナムゲル崩御し皇太子パルデン・トンドゥプ・ナムゲル即位した。パルデン・トンドゥプはシッキムインド保護国地位在ることに不満を抱いていたため、父王の親印路線転換し、反印・シッキム独立路線推進するうになる。その一方でコミュナル選挙制度廃止民主主義制度導入主張するSNC敵視し弾圧加えた。しかし1967年第3回参事院補欠選挙ではSNC選挙議席18議席のうち倍増の8議席得て第1党となった第1党地位得たSNCだったが、まもなくパルデン・トンドゥプの策動により党内紛争勃発する内閣相当する行政参事会委員就任につき、パルデン・トンドゥプはSNC内訌もたらそうとして、総裁ドルジではなく幹事長ビーム・バハドゥル・グルン(B.B.Gurung、通称「B.B.グルン」)を委員一方的に抜擢し委員補佐にはタクルシン・ライ(Thakurshing Rai)を起用したこのため1967年9月SNCは反王室派ドルジ派と親王室派のグルン派にあっけなく分裂することになったそれのみではなくSNC内紛嫌気指した離党者が相次ぎ、これら離党者はラール・バハドゥル・バスネット(英語版)を党首とするシッキム人民党SJP)を結成した1970年第4回参事院選挙選挙議席18)では、インド・シッキム条約の改正(すなわちシッキム独立)が争点となったが、この時のSNCは親印に転じ主要政党の中で唯一改正消極姿勢示している。結果は、改正に特に積極的な姿勢示したSNPが7議席第1党躍進した。一方SNCは、ドルジ派が勝利してグルン派が全員落選したものの内紛影響覆い難く、5議席第2党転落した第3党のSSCは4議席回復し、こうして親王室派のSNPとSSC11議席占めることになり、行政参事会委員割当も、パルデン・トンドゥプが一方的かつ恣意的にSNP3、SSC2、SNC1に改め有様だった。しかし王室報復恐れ行政参事会委員執着図ったドルジはこれに逆らわず党内反対無視して行政参事会委員就任している。1972年1月SNC発行ブレティン(党公報)でパルデン・トンドゥプや政府腐敗ぶりを糾弾したところ、ドルジがかえって非難対象となり、さらに扇動罪を適用されたためにインドへの亡命余儀なくされた。以後SNC活動組織弱体化していく。

※この「SNCの結成と失脚」の解説は、「カジ・レンドゥプ・ドルジ」の解説の一部です。
「SNCの結成と失脚」を含む「カジ・レンドゥプ・ドルジ」の記事については、「カジ・レンドゥプ・ドルジ」の概要を参照ください。

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