SNCの結成と失脚
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「カジ・レンドゥプ・ドルジ」の記事における「SNCの結成と失脚」の解説
1960年5月28日、ドルジはスワタントラ・ダルを離党して、SSCやSNPから離党した有志と共にシッキム国民会議派(SNC)を創設した。同党総裁にはドルジが選出されている。SNCもやはりネパール系住民主体の政党であり、民主的責任政府の樹立、普通選挙実施、ネパール系への差別撤廃、インド人ディーワーン(駐留行政官)によるシッキム内政監督への反対などを主張し、シッキム王室と対立した。 1963年に第11代国王タシ・ナムゲルが崩御し、皇太子のパルデン・トンドゥプ・ナムゲルが即位した。パルデン・トンドゥプはシッキムがインドの保護国の地位に在ることに不満を抱いていたため、父王の親印路線を転換し、反印・シッキム独立路線を推進するようになる。その一方でコミュナル選挙制度廃止や民主主義制度導入を主張するSNCを敵視し、弾圧を加えた。しかし1967年の第3回参事院補欠選挙ではSNCが選挙議席18議席のうち倍増の8議席を得て第1党となった。 第1党の地位を得たSNCだったが、まもなくパルデン・トンドゥプの策動により党内紛争が勃発する。内閣に相当する行政参事会委員の就任につき、パルデン・トンドゥプはSNCに内訌をもたらそうとして、総裁のドルジではなく、幹事長ビーム・バハドゥル・グルン(B.B.Gurung、通称「B.B.グルン」)を委員に一方的に抜擢し、委員補佐にはタクルシン・ライ(Thakurshing Rai)を起用した。このため、1967年9月にSNCは反王室派のドルジ派と親王室派のグルン派にあっけなく分裂することになった。それのみではなく、SNCの内紛に嫌気が指した離党者が相次ぎ、これら離党者はラール・バハドゥル・バスネット(英語版)を党首とするシッキム人民党(SJP)を結成した。 1970年の第4回参事院選挙(選挙議席18)では、インド・シッキム条約の改正(すなわちシッキムの独立)が争点となったが、この時のSNCは親印に転じ、主要政党の中で唯一改正に消極姿勢を示している。結果は、改正に特に積極的な姿勢を示したSNPが7議席で第1党に躍進した。一方のSNCは、ドルジ派が勝利してグルン派が全員落選したものの内紛の影響は覆い難く、5議席で第2党に転落した。第3党のSSCは4議席に回復し、こうして親王室派のSNPとSSCが11議席を占めることになり、行政参事会委員の割当も、パルデン・トンドゥプが一方的かつ恣意的にSNP3、SSC2、SNC1に改める有様だった。しかし王室の報復を恐れ、行政参事会委員に執着を図ったドルジはこれに逆らわず、党内の反対も無視して行政参事会委員に就任している。1972年1月、SNC発行のブレティン(党公報)でパルデン・トンドゥプや政府の腐敗ぶりを糾弾したところ、ドルジがかえって非難の対象となり、さらに扇動罪を適用されたためにインドへの亡命を余儀なくされた。以後、SNCは活動も組織も弱体化していく。
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