OZ結成〜解散までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > OZ結成〜解散までの意味・解説 

OZ結成〜解散まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:54 UTC 版)

カルメン・マキ」の記事における「OZ結成〜解散まで」の解説

1972年には当時18歳であったギタリスト春日博文とともにカルメン・マキ&OZ」を結成メンバーは、春日博文ギター)、鳴瀬喜博ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之ドラムス、のちに竜童組)。 結成当初順風満帆とはいえず、所属事務所からはキャバレー回り強要され時には客から「こんな曲では踊れない」とビン投げつけられることもあったという。 しかし、こうした地道な活動実を結び1974年ポリドールからシングル午前一時スケッチ」でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバムカルメン・マキ&OZ』をリリース10万以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。このアルバム収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手ミュージシャンカバーされその中でも特に中森明菜のものが有名である。なお、この録音前後マキ春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。ドラム西哲也、古田宣司の1stアルバム参加経て内藤正美1975年末まで在籍ベース千代谷晃を経て1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響与えた川上茂幸に替わった1975年5月ジェフ・ベック・グループグランド・ファンク・レイルロード来日公演オープニング・アクト務める。 1976年アメリカ合衆国ロサンゼルスセカンド閉ざされた町』を4か月かけて制作ファースト引き続き閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線継承しながらも風格漂わせたものに仕上がっている。「閉ざされた町」でドラム担当したのは久賀一。 翌1977年10月18日新宿厚生年金会館でのステージ最後に解散。その年の12月にはサードアルバム『III』を発表。前2作とは打って変わってポップな楽曲並んだ。また解散翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月解散ステージ同年5月日比谷野外音楽堂ライブ音源収録したライヴ』がリリースされている。『III』『ライヴ録音時のメンバーマキ春日川上武田治 (Dr)、川崎雅文川崎真弘)(Kb) であった

※この「OZ結成〜解散まで」の解説は、「カルメン・マキ」の解説の一部です。
「OZ結成〜解散まで」を含む「カルメン・マキ」の記事については、「カルメン・マキ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「OZ結成〜解散まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「OZ結成〜解散まで」の関連用語

OZ結成〜解散までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



OZ結成〜解散までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカルメン・マキ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS