JYD
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「ジャンクヤード・ドッグ」の記事における「JYD」の解説
1980年より、ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ、アーカンソーの4州をサーキット・エリアとするビル・ワット主宰のMSWAに定着。ワットのアイデアでリングネームをジャンクヤード・ドッグ(JYD)と改め、ブルーカラーのイメージを強調したキャラクターに変身する。彼が鎖のつながれた首輪を付けて登場すると、観客は一斉に犬の吠え声を真似て呼応。異色のベビーフェイスとして、アーニー・ラッド、レロイ・ブラウン、ファビュラス・フリーバーズ、ブル・ラモス、ボブ・ループ、テッド・デビアス、ジム・ドゥガン、カマラ、ブッチ・リード、ザ・グレート・カブキらと抗争し、同地区認定のタイトルを再三獲得、南部マットを代表する黒人スターとなった。 ファイトスタイルは直線的なラフ&パワーが主体で、キングコング・バンディやワンマン・ギャングなどのスーパーヘビー級の巨漢をボディスラムで投げたこともある。また、現在のハードコア・レスリングにも通じる "ゲットー・ストリート・ファイト"、双方の首をチェーンでつないで行う "ドッグ・カラー・マッチ" などの荒っぽい試合でも本領を発揮、喧嘩ファイトの強さを見せた。一時、スタッガー・リー(Stagger Lee)を名乗り覆面レスラーに変身したこともある。 1984年、WWFと契約。ハルク・ホーガンの盟友となり、グレッグ・バレンタイン、アドリアン・アドニス、テリー・ファンクなどのヒール勢と抗争を展開、メキシコ系のティト・サンタナや東洋系のリッキー・スティムボートとのマイノリティ同士のタッグチームでも人気を博した。コンバット・スタイルになってサージェント・スローターのパートナーを務めたこともある。1985年11月7日のPPV『ザ・レスリング・クラシック』におけるワンナイト・トーナメントでは、1回戦でアイアン・シーク、2回戦でムーンドッグ・スポットを下して勝ち進み、決勝戦でランディ・サベージを破り優勝。1987年はハーリー・レイスとの「キング対ドッグ」の抗争アングルを繰り広げ、9万3173人の大観衆を集めた『レッスルマニアIII』にて決着戦が行われた。 1988年末にWWFを離れ、翌1989年からはWCWに移籍。当時WCWの管理下にあったリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。1992年にはジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰していたメンフィスのUSWAに参戦し、9月21日にエディ・ギルバートからUSWA統一世界ヘビー級王座を奪取した。その後も各地のインディー団体に大物ゲストとして出場していたが、1998年6月2日、交通事故で死去。45歳没。 その功績を称え、没後の2004年にWWE殿堂に迎えられた。殿堂入りのインダクターは、かつてMSWAで黒人レスラー同士の抗争を展開したアーニー・ラッドが務めた。顕彰セレモニーには娘のラトーヤ・リッターが出席、翌3月14日の『レッスルマニアXX』で彼女が紹介された際、観客はJYDの選手時代と同様に犬の吠え声をあげて歓迎した。
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