GMによる買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 01:28 UTC 版)
しかし、比較的高価なモデルを少量生産するボクスホールの経営は元々不安定で、第一次世界大戦後には外国企業の参入などによる市場競争激化の影響を受け、経営不振に陥った。1922年からは量産型の中型車を生産するなど、マス・プロダクションへの志向を見せるようになるが経営状況の困難さは変わらず、1925年には257万5,000ドルでアメリカの大手自動車メーカーであるゼネラルモーターズ (GM) に買収された。 GMは第一次世界大戦後、ヨーロッパへの大規模な進出を進めていた。しかし当時のイギリスでは輸入自動車に対する30%超の高額課税政策「マッケンナ・デューティ」が行われており、同時にイギリス独特のボア径と気筒数から規定される自動車税制から、高速向けなショートストローク・エンジンを搭載した大排気量車への自動車税も高かった(イギリス車が後年まで低速型のロングストローク・エンジンを主流としたのも、この税制対策が理由である)。これでは大排気量ショートストロークエンジンが主流のアメリカ車を単純に輸入するのは得策といえず、GMはイギリスメーカーの買収を図って現地生産を行おうとしたのである(GMは当初オースチンを550万ドルで買収しようとしたが失敗していた)。こうして外資企業となったボクスホールであったが、実際にはGMの影響を受けながらも、イギリスの国情に合致した独自車種の開発・生産が続けられた。 1930年、GMのイギリスにおける販売部門のトップであったイギリス人チャールズ・ジョン・バートレットがボクスホールの社長に就任した。バートレットは1953年まで社長職を務め、穏健な労使協調路線のもと業績を拡大、会社をマス・プロダクションメーカーへと発展させた。 1930年代には1.2リッターから3.2リッターまでのワイドレンジに生産モデルを広げる一方、1931年からはシボレー・トラックを国産化した2トン積トラック「ベッドフォード」を生産開始して商用車部門に進出、以後「ベッドフォード」ブランドの商用車群は、ボクスホールの経営を下支えする重要部門となった。戦前最盛期の1938年には年産6万台に達し、イギリスにおける量産自動車メーカーの一つになっていた。 この間には、アメリカのGM本社で開発された新技術が続々と移入された。シンクロメッシュ・ギアボックス(1931年)、ノー・ドラフト・ベンチレーション(いわゆる「三角窓」を用いて隙間風を防いだ換気システム 1933年)、前輪独立懸架(トーションバー・デュボネ式 1935年)、モノコック構造(1937年)、油圧ブレーキ(1937年)などは、該して技術面で保守的なイギリス車の中では極めて早い採用例であった。 第二次世界大戦中は軍需向けに25,000台のベッドフォード・トラック、2,500台の軍用乗用車を生産したほか、自社で設計・開発した38t重戦車の「チャーチル歩兵戦車」5,600両以上を生産した。このためボクスホール工場はドイツ軍による爆撃の被害を受けてもいる。
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