ポー・エドガー・アラン(Edgar Allan Poe)
1809年(文化6)、アメリカのマサチューセッツ州ボストン生まれ。両親とも旅回りの芸人だったが、幼くして両親を亡くす。命名親であり煙草商人のアラン家に引き取られる。ただし、法律上の養子にはならなかった。
1827年(文政10)、18歳のとき、処女詩集「タマレーン、その他の詩」を刊行。
1833年(天保4)、「壜の中の手紙」が「ボルティモアサタディヴィジター」のコンテストで第一席になる。
1835年(天保6)、13歳の従姉妹ヴァージニアと結婚し、「サザンリテライメッセンジャー」の編集者となる。
1839年(天保10)、「ジェントルマンズマガジン」の編集者となる。
1841年(天保12)、「グレアムズマガジン」の編集者となる。
1841年(天保12)にディケンズが発表した「バーナビーラッジ」のメイントリックを雑誌連載中に見破って「グレアムズマガジン」に発表。
1841年(天保12)、「グレアムズマガジン」に世界最初の探偵小説「モルグ街の殺人事件」を発表。
1842年(天保13)、「マリーロージェの謎」を「スノードンズレディースコンパニオン」に発表。
1843年(天保14)、ニューヨークの「ダラーニュースペーパー」の懸賞で、「黄金虫」が一等入選。
1844年(弘化1) 、「盗まれた手紙」を「ザギフト」に発表。
1845年(弘化2)、編集者として勤めていた「イブニングミラー」に詩の代表作「大鴉」を発表し、国民的詩人となる。
1845年(弘化2)、探偵小説集「Tales」や「The_Raven_and_Other_Poems」を刊行。
1847年(弘化4)、ヴァージニアに死なれてからは、生活が荒れ、酒に酔って、夜風にさらされ、脳炎にかかり、1849年(嘉永2)に死去。
1856年(安政3)、ボードレールの「意外な物語」によってヨーロッパに紹介され、ドイルのホームズ誕生の遠因となる。
「モルグ街の殺人事件」が、1887年(明20)には「ルーモルグの人殺し」のタイトルで饗庭篁村(竹の舎主人)によって「読売新聞」に訳される。また、1913年(大2)には「病院横町の殺人犯」のタイトルで森鴎外によって訳される。
アメリカ最大の文豪であり、また、探偵小説を創始した父。天才型探偵(デュパン)とその引き立て役という構図、発端の怪奇性と結末の意外性、データをあらかじめ提示し、意外な決着をつけるフェアプレイ性、推理の過程を説明する結末など、現在の探偵小説の形式のほとんどを発明した。江戸川乱歩のペンネームの元となった作家でもあり、乱歩がチェスタトンと並んで最も高く評価した探偵作家のひとり。
Weblioに収録されているすべての辞書からポー・エドガー・アランを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からポー・エドガー・アランを検索
- ポー・エドガー・アランのページへのリンク