イブニング・ミラー
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「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事における「イブニング・ミラー」の解説
ウィリスはニューヨーク市に戻り、1844年、ジョージ・ポープ・モリスと共に週刊の「ニューヨーク・ミラー」を、日刊の「イブニング・ミラー」に再編した。また「ウィークリー・ミラー」という週刊紙も出した。これは郵便料の高騰が一部影響していた。この時までに、ウィリスは人気ある作家となっており(冗談にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはドイツのN・P・ウィリスだとも言われた)、アメリカでも最初期に商業的な成功を収めた雑誌寄稿者だった。同年秋、ルーファス・ウィルモット・グリスウォルドが創刊した年刊の文芸誌「オパール」の初代編集者ともなった。この時期、アメリカでも最も原稿料の高い雑誌寄稿者となり、原稿1本で約100ドル、年間5,000ドルを稼いでおり、その数字は間もなく2倍になった。人気ある詩人のロングフェローですら、ウィリスの得ている原稿料を妬んだことを認めていた。 ウィリスは批評家として、作家の作品を審査するときに作家の個性を議論することを含めるとは考えなかった。出版物は政治的な話題を議論すべきだが、作家は党派の意見を表明したり、党派に付いたりすべきではないという考えでもあった。「ミラー」は、他の多くの出版物が廃刊される中で評判を上げた。その成功は、ウィリスとモリスの賢明な管理によっており、アメリカの大衆が文学的な努力を支持することができると示した。ウィリスはアメリカ文学の専門家となり、1845年、ウィリスとモリスは作品集『アメリカの散文と韻文』を発行した。 ウィリスが「イブニング・ミラー」の編集者である間の1845年1月29日の版は、ポーの詩『大鴉』にその名前を付けて最初の掲載を行った。ウィリスはその紹介文で、「英語の詩では、微妙な概念、作詩法の見事な創造力で比類なく、一貫し維持できる想像的高揚感がある...それを読む誰もの記憶に残ることになる」と言っていた。ウィリスとポーは親友であり、ポー夫人のバージニアが病気になったときはポーを財政的に支え、また名誉毀損でトマス・ダン・イングリッシュを訴えたときも援助した。ウィリスはポーに批評するときは破壊的にならないよう、また詩作に集中するように説得しようとした。そうは言っても、ウィリスは後に「ロングフェロー戦争」と呼ばれることになる多くの記事を掲載した。これはポーと、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの支持者との間の文学的戦いであり、ポーはロングフェローのことを過大に評価されており、盗作をおこなっていると批判していた。ウィリスはポーをファニー・オズグッドに紹介もしており、ポーとオズグッドは後に公になった文学的浮気をすることになった。 ウィリスの妻メアリー・ステイスは1845年3月25日、出産時に死んだ。その娘ブランシェも死に、ウィリスはそのノートに彼女が「欠陥も欠点もない天使」だったと記した。ウィリスは残った娘のイモジェンをイングランドに連れて行って妻の家族に預け、一人でアメリカ合衆国に戻った。1846年10月、ウィリスはニューベドフォード出身の裕福なクエーカー教徒であり、地元下院議員の養女だったコーネリア・グリネルと結婚した。彼女はウィリスより20歳年下であり、新しい夫とは異なり、奴隷制度を忌み嫌う者だった。その結婚後、ウィリスの娘のイモジェンがニューヨークの新婚世帯に来て一緒に住むようになった。
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