ERM参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:03 UTC 版)
「マーガレット・サッチャー」の記事における「ERM参加」の解説
サッチャーが欧州懐疑論の立場をとっていたことは通説であるが、1975年6月に実施されたEEC離脱を問う国民投票では残留を主張した。サッチャー政権下においても、1986年2月にEECを強化するための単一欧州議定書に署名した。 ユーロ加盟の前段階となるERM加入には、強く反対の立場であったことは事実である。「事がうまく運んだとしてもERM加入はプラスにはならない。事がうまく運ばなかった場合はERM加入は状況を悪化させるだろう。」とサッチャーは考えていた。アラン・ウォルターズ(サッチャーの経済アドバイザー)も、ERM加入はスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力を強くするだろうと懸念していた。ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないとウォルターズは考えていた。 しかしナイジェル・ローソン財務大臣とその後任のジョン・メージャーらの働きかけに押され、イギリスをERMに加入させたことも事実である。ローソンは1987年頃から為替レートの安定化政策を主張し始めたが、一方で1988年にサッチャーとローソンの関係は悪くなっていた。1980年代後半からの拡張型金融政策によってイギリス経済が成長していた状況下、インフレ抑制を好むサッチャーと安定な為替レートを好むローソンの対立が次第に顕在化し始めた。それでもEMUに対するサッチャーとローソンの見解は一致していた。両者ともにEMUには反対していた。その年の中頃にジェフリー・ハウが閣内不一致となるスピーチをするようになった。ハウはERMに関してローソンとほぼ同じ意見であった。 1989年にレオン・ブリタンがERM加入のメリットをサッチャーに力説した。イギリスがERMに加入することでERMの発展をイギリス主導で行えるとブリタンは主張した。その年の5月にはウォルターズが公式にサッチャーの助言役として復帰し、これによってサッチャーとローソンとの間の確執は決定的になった。ローソンはドイツマルクとの為替レートを見ながらイングランド銀行の利上げを主張し、一方のウォルターズは景気を悪化させるとして利上げには反対だった。サッチャーは内閣改造により、ハウを下院院内総務にしてローソンを留任させた。しかし結局ローソンは辞任し、ウォルターズも辞任することになる。サッチャーは後任の人事としてジョン・メージャーが適任と考えており、いつかはメージャーがサッチャーの後任を務めるだろうとサッチャーは考えていた。そしてメージャーに経験を積ませたいとサッチャーは考え、メージャーを財務大臣にした。 しかしメージャーはERM参加に熱心になり始めた。1990年にERM参加のメリットは為替レートの安定だけでなく、金利を下げることでもあるとメージャーは主張した。さらには、ローソンらとの対立で顕在化した保守党内の内部抗争についてERM参加によって保守党が団結でき、それが経済にもよい影響を与え、次回の総選挙に勝てるのだともメージャーは主張した。最終的にサッチャーはメージャーらに譲歩して変動幅 ± 6.0 {\displaystyle \pm 6.0} (%)でのERM参加を検討し、その年にイギリスはERMに加入した。
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