DFVの退潮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 04:57 UTC 版)
「フォード・コスワース・DFVエンジン」の記事における「DFVの退潮」の解説
DFVに終焉をもたらしたのはターボエンジンの登場であった。F1のレギュレーションには「過給式エンジンの排気量は自然吸気エンジンの1/2とする」というハンディがあり、DFVの戦闘力の高さや「ターボラグ」の問題から自然吸気エンジン有利と考えるものが多く、ルノー以前に挑戦するチームはいなかった。それに目をつけたルノーが1977年に排気タービンによる過給器付きエンジン(いわゆるターボ)を持ち込んだ(ルノー・RS01)。 そもそもルールの原文にある「'supercharged'」は慣習的には過給器付きエンジンを指す表現と考えられており、問題点もあるがそもそもターボの使用はできないという風潮もあった。一方で「'supercharged'」といえば機械式過給機を指すのが普通であったため、そこでルノーは「'supercharged'」の単語を「'supercharged'=過給機」ではなく、「'supercharged'=スーパーチャージャー」のことを指し、そのうえで同じ過給機でも排気タービンによる過給機、いわゆる「ターボチャージャー」を「ルールのspiritではなく『文字通り』に従った行為(ルール上で明確にターボが禁止されていない)」としてF1へ持ち込んだ。運営側の判断としては黙認という形になったが、初期のルノーはターボエンジン特有の「ターボラグ」に悩まされ、またエンジンブローも頻発したため、DFVユーザーの敵にはならなかった。しかし、1979年フランスグランプリで初優勝を挙げた頃から、各メーカー、チームは次第にターボエンジンの潜在力と性能に目を向けるようになっていった。 1980年代に入ると、さらに状況は変化した。1981年にはフェラーリがターボエンジンへの切り替えに踏み切り、1982年にはBMWがブラバムにターボエンジンの供給を開始した。また、1983年にはホンダとポルシェもターボエンジンの供給を開始した。大メーカーがターボエンジンの供給を始めると、次第にDFVが活躍する幅は狭くなっていった。各チームは戦闘力に勝るターボエンジンを求めるようになり、ターボエンジンを得られずDFVを使用するチームは徐々に下位に沈んで行った。 それでも1982年のグランプリではDFVエンジンを搭載したウイリアムズのケケ・ロズベルグが総合王者になったが、DFVの栄光もここまでであった。翌1983年のシーズンではフラットボトム規制が施行され事実上グラウンド・エフェクト・カーは参加できなくなったこともあり、BMWターボエンジンを搭載した、ブラバムを駆るネルソン・ピケが総合王者になり、DFVエンジンは遂に王座から陥落した。
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