500日計画作成までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:27 UTC 版)
「500日計画」の記事における「500日計画作成までの経緯」の解説
1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、党・国家の人事刷新に着手すると同時にソ連経済の改革を提起した。これが「社会・経済発展の加速化(ウスカレーニエ)」である。しかし、1986年までに「加速化」のための経済的・政治的な前提条件を構築するため、ここに「ペレストロイカ」の概念が登場してくるのである。 1987年7月の国有企業法制定を端緒に、ハンガリー(カダル・ヤノシュ社会労働者党政権)に範を取った分権型計画経済モデルに範を取った経済改革が実施されるが、この改革は、共産党機関、連邦政府や国有企業の既得権益を奪うものであり、これらの官僚機構によって骨抜きにされてしまった。これに加えてソ連国内市場の未成熟や改革プログラムの制度的欠陥などにより機能不全に陥った。 1989年7月、ソ連副首相(経済改革担当)に任命されたレオニード・アバルキンによって、従来の市場経済をソ連経済に導入するという視点からより一歩、踏み込んだ新しい経済改革の方針が作成された。同年10月、ニコライ・ルイシコフソ連首相は最高会議で所有、土地、賃貸制、税体系、社会主義企業に関する経済関連法案を提示した。 1990年2月、ルイシコフは調整市場移行プログラム(ルイシコフ案)作成を開始し、同年5月に最高会議に提出したが、食料、工業製品を中心とする価格引き上げは国民の反発を引き起こした。また、ルイシコフ案をきっかけに投機的需要が高まり、買占めパニックが発生する事態が生じた。結局、最高会議はプログラム案を政府に差し戻す形で1990年9月1日まで市場経済への移行のための具体的計画を作成することを指示した。
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